2011年01月04日

●「イカルス号事件における龍馬の役割」(EJ第2968号)

本年はじめてのEJです。今年もよろしくお願いします。
 「新視点からの龍馬論」──いよいよ最終章です。ここから、
なぜ龍馬が殺されたのか、犯人は誰かに迫っていきます。
 ここまで書いてきたことでわかったことは、龍馬は表舞台では
あまり活躍していないことです。しかし、暗殺されるということ
は、龍馬が生きて活躍されると困る向きがあるからです。その理
由とは何なのでしょうか。そもそも龍馬とは何者であり、幕末に
おいて彼は何をしたのでしょうか。謎は深まる一方です。
 既出の加治将一氏は、大胆な仮説を立てて坂本龍馬論を展開し
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   加治将一氏の仮説: 坂本龍馬 = 英国の諜報員
―――――――――――――――――――――――――――――
 この仮説に立ってイカルス号事件を整理してみましょう。この
事件が起こったのは、慶応3年(1867年)7月6日のことで
す。ちょうどそのとき、英国の公使パークスは長崎におり、当然
のことですが、龍馬も長崎にいたのです。
 パークス英国公使は、長崎奉行に談判したのですが、埒が明か
ないと判断すると、徳川慶喜のいる大阪に向かったのです。そし
て老中の板倉勝静と談判します。そのとき当事者である土佐藩が
立ち会っています。土佐藩大目付の佐々木三四郎です。そのとき
龍馬はどこにいたのでしょうか。
 実は、龍馬も大阪に出てきているのです。海援隊が犯人と疑わ
れているのですから、隊長である龍馬は当事者になるので大阪に
出てきても不思議ではないのですが、龍馬はつねに主役ではなく
裏役に徹しているのです。
 パークス公使が取り調べは直接土佐藩とやるといったので、幕
府としては捨てておけず、若年寄・平山敬忠以下を土佐藩に派遣
することにしたのです。そのさい佐々木三四郎と仕置役の由比猪
内にも乗船を勧めたのですが、佐々木らは乗船を断っています。
 佐々木らは、土佐藩船が大阪周辺にいなかったので、兵庫に停
泊していた薩摩藩船「三邦丸」を借りて土佐に向かったのです。
実はその「三邦丸」には龍馬も乗船し、佐々木らと一緒に土佐ま
できているのです。
 なぜ、龍馬が「三邦丸」に乗ることになったのかには理由があ
るのです。というのは、龍馬はそのとき、佐々木らと土佐まで行
く予定ではなかったからです。
 慶応3年8月1日、佐々木らが兵庫で「三邦丸」に乗船すると
後からボートで龍馬が追いかけてきたのです。用事は事実上の土
佐藩主・山内容堂公に宛てた松平春嶽の書状を佐々木三四郎に渡
しにきたのです。問題の紛糾を恐れた松平春嶽が「パークス公使
には逆らわない方が良い」とアドバイスしたものと思われます。
 別説として、この書状は徳川慶喜の親書であるとしている史書
もあります。いずれにせよ、イカルス号事件は突発的に起こった
ものであり、その後のテンポの早い展開にもかかわらず、こうい
う書状を持って龍馬が現れるのは不思議な話です。電話のない時
代にどのようにして情報を交換したのでしょうか。この場合、龍
馬を英国の諜報員と考えると、その謎は解けてくるのです。
 それはさておき、なぜ龍馬が「三邦丸」で土佐まで行くことに
なったかですが、龍馬が「三邦丸」に乗船して、佐々木らと話し
合っていると、船が出港してしまったからです。つまり、龍馬は
土佐に行く予定はなかったのですが、自分のミスで土佐に行くこ
とになってしまったのです。
 さて、パークス公使は、アーネスト・サトウを伴い、バジリス
ク号で大阪を出港し、途中で徳島藩に立ち寄っていることは既に
述べた通りです。
 佐々木三四郎と龍馬はそのまま土佐まで「三邦丸」できたので
すが、高知ではなく須崎という港町で船を下りています。
慶応3年8月2日のことです。なぜ、高知ではなく須崎かという
と、英国側とそういう約束になっていたものと思われます。須崎
で下船した佐々木らは藩庁に報告に向かい、龍馬はそこに停泊中
の土佐藩船「夕顔丸」に乗船して身を潜めたのです。
 なぜ、龍馬は身を隠したのでしょうか。
 それは土佐藩で、龍馬は英国のスパイではないかという情報が
流れていたからです。英国の公使が直接土佐に乗り込んでくるこ
とになったのも龍馬の策略であると思われていたのです。
 平山敬忠らを乗せた幕船「回天丸」は3日に須崎港に入ってい
ます。しかし、徳島藩に寄ったバジリスク号は6日に須崎港に入
港し、8日に後藤象二郎が参加してバジリスク号の船内で談判が
行われたのです。藩内には依然として公武合体派の力が強く、何
が起こっても不思議はなかったのです。そのため、大事をとって
会議場として予定していた須崎大善寺を変更したのです。
 ところが談判そのものは簡単に終わったのです。疑惑が晴れた
わけではないのですが、パークス公使の立てた推理が崩壊したか
らです。パークス公使によると犯人は「横笛丸」に乗って逃走し
後から出航した「南海丸」に乗り継ぎ、そのまま土佐方面に逃走
したというものです。
 これに対して後藤象二郎は、「横笛丸」の出港は7月7日の未
明であるが、正午頃帰港しており、「南海丸」の出港はその日の
夜であるとする証拠を提示したのです。
 ここでパークス公使は、全権をあっさりとアーネスト・サトウ
に譲り、以後の談判は長崎にて行うこととして、9日には兵庫に
戻っています。
 そこで、幕府の平山敬忠らは10日に長崎に向かい、佐々木三
四郎と龍馬、そしてサトウは「夕顔丸」に乗って12日に須崎を
出航しています。しかし、このイカルス号事件によって、土佐藩
による大政奉還の建白はストップしてしまったのです。この事件
の解決が何よりの先決事項であったからです。
            ──  [新視点からの龍馬論/59]


≪画像および関連情報≫
 ●パークス英国公使について
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  1865年、前年の四国艦隊下関事件に際しての行動が英国
  政府の意に沿わないとして解任されたオールコックの後任公
  使に任命され、横浜に到着した。幕府との交渉を開始するが
  当時将軍など幕閣の大半が第一次長州討伐で江戸を留守にし
  ていたため、パークスは仏・蘭とともに連合艦隊(米国は代
  理公使のみの派遣)を兵庫沖に派遣し、威圧的に幕府・朝廷
  と交渉、その結果孝明天皇は条約勅許と関税率の改正は認め
  たが、兵庫開港は不許可とした(兵庫開港要求事件)。家族
  を迎えるために上海に向かう途上、下関で長州藩の高杉晋作
  ・伊藤博文と会談した。       ──ウィキペディア
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 ●写真出典/ウィキペディア「ハリーパークス」

ハリー・パークス英国公使.jpg
ハリー・パークス英国公使
posted by 平野 浩 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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