2010年12月28日

●「大政奉還の建白書が固まる」/年内最終号(EJ第2967号)

 薩土盟約は「大政奉還」を前提としています。したがって、土
佐藩として大政奉還の建白書草稿を作る必要があります。後藤象
二郎は部下を指揮して直ちにこの仕事に取り組んだのです。
 後藤としては、最も同意を取ることが難しいと考えられていた
薩摩藩と基本的な同意ができたので、あとは藩内の説得──それ
も山内容堂公のそれであったのです。しかし、後藤はその説得に
には成算があったのです。
 慶応3年6月26日に後藤は大政奉還の建白書の草稿を作り上
げ、薩摩藩と協力を仰ぐ芸州(広島)藩に届けています。27日
には、芸州藩の家老・辻将曹が後藤と、28日には佐々木三四郎
と面談を重ね、7月1日には伊達宗城のもとを辻が訪れ、芸州藩
が土佐藩の建白書に同調する方針であることを伝えたのです。
 この土佐藩の建白書草稿について薩摩藩は同意の意向を伝えて
きたのですが、もちろん本心からのものではないことは後藤もよ
くわかっていたのです。
 薩摩藩の同意について、土佐藩上士の佐々木三四郎(高行)は
『保古飛呂比』に次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このたびの事は、吾が藩を主人となし、一本打たせ、後に大い
 になさん目的なり。(中略)一本参りたりとさけんで、後太刀
 は十二分占める覚悟ならん。         ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩・芸州両藩の同意を得た後藤たちは早速帰国の途についた
のです。土佐藩が正式に大政奉還の建白を行うには、山内容堂以
下の藩上層部の了承が必要だったからです。
 後藤らの一行は7月3日に大阪を発し、7日に海路で高知に向
かったのです。しかし、龍馬はこの一行には加わらず、しばらく
大阪に滞在し、そのあと京都に帰っています。したがって、大河
ドラマのように後藤と龍馬が一緒に容堂公に大政奉還を説いたと
いうのは作り話であるということになります。
 7月7日の夜に浦戸港に上陸した後藤は、直ちに城下の散田屋
敷で山内容堂に拝謁し、大政奉還を説いたのです。容堂は感服し
て、満面に喜色を浮かべて後藤を中心として、寺村左膳、真辺栄
三郎、神山左多衛らを召して建白の準備を命じたのです。後藤が
考えていたように容堂公は大政奉還の建白に同意したのです。
 しかし、このとき長崎では海援隊にとってとんでもない事件が
勃発していたのです。慶応3年7月6日の夜──その日長崎では
「星祭り」が行われていたのですが、丸山遊郭のある寄合町で、
英国軍艦イカルス号の水兵2人が殺害されるという事件が起きた
のです。水夫の名前は、ロバート・フォードとジョン・ホッチン
グスといい、酒に酔って路上で寝ているところを何者かに斬り殺
されたのです。
 当時の列強で日本に強い影響力を持っていたのは、フランスと
英国です。その図式を添付ファイルで示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.幕府支持派 ・・・・ ロッシュフランス公使
   2.薩長支持派 ・・・・ パークスイギリス公使
―――――――――――――――――――――――――――――
 海援隊に強い嫌疑がかかっていたのです。その根拠は服装なの
です。「白木綿筒袖、襠高袴を着て帯刀」という目撃証人の言に
よって海援隊の服装と同じだということになったのです。
 しかし、当時の船員はほとんど同じような服装をしており、そ
れが海援隊の仕業と極め付けるには無理があったのです。英国領
事は長崎奉行所に犯人の捕縛を強く要求したのですが、長崎には
諸藩の船乗りが多数出入りしており、犯人を特定できなかったの
です。そのとき、英国公使のパークスは長崎に滞在していたので
すが、パークスに新しい情報がもたらされたのです。
 犯行時間の深夜3時に海援隊の帆船「横笛」が長崎港を離れて
おり、しかも、その2時間後に同じく土佐藩船「南海丸」が動い
ているのです。
 そこでパークスは次のように推理したのです。犯人は海援隊の
隊員で、英国人水夫2人を殺すと、「横笛」に乗って逃走してい
る。そして沖合で後から出航した「南海丸」に犯人は乗り移り、
土佐に逃亡する──この論法でパークス公使は長崎奉行所にかけ
あったのですが、証拠がないので、長崎奉行所はがんとして動か
なかったのです。
 パークス公使は、これでは埒があかないと見るや、ただちに長
崎を離れ、大阪に向かったのです。大阪には、徳川慶喜がいたか
らです。応対に出てきた老中の板倉勝静へパークスは次のように
烈しく抗議したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 長崎奉行が怠慢だから治安が乱れ、狼藉が起こったのである
―――――――――――――――――――――――――――――
 パークス公使の物凄い剣幕に押され、板倉は2人の長崎奉行を
罷免し、それに加えて長崎外国人居留地護衛のために、500人
の警備兵を送ることを約束したのです。
 それでもパークス公使の怒りは収まらず、土佐に乗り込むこと
を明言したのです。英国の公使が直接土佐に乗り込むとは異例の
事態です。幕府としてはこれを止める力はなかったのです。
 パークス公使は、バジリスク号で大阪を出港し、土佐に向かう
のです。この動きに土佐藩は緊張します。しかし、英国艦隊は思
いもかけぬところに立ち寄ったのです。それは徳島藩です。一体
どんなつながりがあるのでしょうか。
 実は、アーネスト・サトウ配下の諜報部員に、徳島藩士、沼田
寅三郎がいたのです。沼田はサトウの『英国策論』日本語訳を手
伝ったサトウの片腕で、根回しができていたと見えて、盛大な歓
迎演出が行われたのです。英国は徳島藩も倒閣の一翼を担うこと
を土佐藩に示したのです。    [新視点からの龍馬論/58]


≪画像および関連情報≫
 ●「イカルス号水兵殺害事件」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イギリス人水兵殺害事件とも云い、当時はあまり大きな関心
  を持たれなかった事件だが、坂本龍馬や土佐藩が此の事件の
  処理に手間取り、結果的には土佐藩による大政奉還と云う大
  事業を、二ヶ月も遅らせてしまったのである。
  事件はいろは丸沈没事件が解決して間もない、慶応三年(1
  867)七月六日の夜更けに発生した。イギリス軍艦イカル
  ス号の乗り組み水夫ロバート・フィードと、ジョン・ホッチ
  ングスの両名が、長崎の花街・丸山で何者かに惨殺された。
  当時の長崎では外人殺傷事件が相次いで発生して、在留外人
  を恐怖に陥れ、しかも何れの事件も加害者の逮捕にいたらず
  警備当局の長崎奉行所への批判が厳しくなっていた。
  http://homepage3.nifty.com/kaientaidesu/html/ziken8.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●図表出典/山本 大著/『坂本龍馬/知れば知るほど』/実
  業之日本社

列強の対日政策.jpg
列強の対日政策
posted by 平野 浩 at 04:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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