2010年12月27日

●腹の探り合い/薩土盟約(EJ第2966号)

 2010年もあと一週間で終了します。EJは28日までお届
けし、新年は4日から再開します。現在のテーマ「新視点からの
龍馬論」は、まだ肝心な部分が残っていますので、新年も引き続
きこのテーマを継続することにします。
 このところ龍馬の話から相当遠ざかっています。12月10日
のEJ第2956号からです。龍馬が暗殺されたのは、慶応3年
(1867年)11月15日です。一体なぜ龍馬は殺されること
になったのでしょうか。
 本日から若干前後しながら、龍馬がなぜ殺されることになった
のかを探っていくことにします。龍馬暗殺の犯人は今もって特定
されていないのです。
 慶応3年6月9日、後藤象二郎と坂本龍馬は藩船の夕顔丸に乗
船し、京都に向かっていたのです。有名な「船中八策」は、この
船の中で示されたことになっていますが、実際にはその内容は後
藤と龍馬の間で何回も協議され、意見が一致したものであったこ
とは既に述べた通りです。その船中八策の大前提は、何といって
も「大政奉還」なのです。
 実はそのとき土佐藩は苦しい立場に置かれていたのです。山内
容堂が煮え切らず、四候会議にも病気と称して出席したり、しな
かったりで、とくに薩摩藩は相当頭にきていたのです。そのため
薩摩藩の一部には「幕府より先に土佐を討て」という声も高まっ
ていたのです。といって、徳川家に恩顧のある土佐藩としては、
簡単に倒幕に組みするわけにはいかなかったのです。
 この事態を深刻に考えた中岡慎太郎は、板垣退助を京都に呼び
薩摩の西郷隆盛、小松帯刀、吉井幸輔が小松の別邸に集まり、両
藩の間に倒幕の密約が交わされたのです。慶応3年5月21日の
ことです。このとき、板垣退助は官を辞して江戸に遊学中だった
のですが、中岡とは意気投合して倒幕を約した仲だったのです。
しかし、これはあくまで密約であり、土佐藩がそれでまとまった
というわけではないのです。西郷にそのことを問われると、板垣
は次のようにいったというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 いまから一月の猶予をくれたら、容堂公と土佐に戻り、藩論の
 いかんを問わず、同志と倒幕に参戦しよう。それができなけれ
 ば切腹して、お詫びする。         ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して中岡慎太郎も、自分は西郷氏の人質になり、もし
板垣が約束を果たさなかったら、自分も腹を切るとまでいったの
で、西郷隆盛は納得したというのです。そして、板垣退助は27
日に容堂公にしたがって、土佐に帰国したのです。容堂公はその
とき、四候会議のため、京都に滞在していたのです。
 そういうときに龍馬の提案として「大政奉還論」が打ち出され
後藤はこれに乗ったのです。京都に着いた後藤は、精力的に藩の
重臣たちに大政奉還論を説いてまわったのです。
 このとき重臣たちの考え方としては、倒幕には賛成できないが
そうかといって、公武合体論の焼き直し程度では問題にならない
ことは承知していたのです。そういうときに折衷案ともいうべき
大政奉還論が出てきたので、大方の賛同を得たのです。
 しかし、そのためには、土佐の藩論を大政奉還の建白に導くこ
とに決したという意味で、山内容堂公の了解を得る必要があった
ことは、いうまでもないことなのです。
 これを聞いて驚いたのは、中岡慎太郎です。後藤から大政奉還
論の話を聞いた中岡は、6月16日に西郷隆盛と吉井幸輔を訪ね
ています。倒幕で密約した薩摩藩と大政奉還論で果たして同意が
得られるかが微妙なところだったからです。
 一方後藤は、宇和島藩主・伊達宗城に拝謁して大政奉還論を説
き、薩摩藩の田中幸助とも会い、基本的に賛意を得るなど、根回
しには全力を上げていたのです。そして、6月20日に後藤は、
小松帯刀を訪ね、改めて大政奉還論を説き、「明後日」に会談す
る約束を取り付けることに成功したのです。
 そして6月22日に、三本木の料亭「吉田屋」で薩摩藩との会
談を行ったのです。出席者は、薩摩からは小松帯刀、西郷隆盛、
大久保一蔵の3人で、土佐からは後藤象二郎、福岡藤次、真辺栄
三郎、寺村左膳、坂本龍馬、中岡慎太郎です。巻末にNHKの大
河ドラマ『龍馬伝』での薩土盟約の動画が見られます。
 既に根回しができていた薩摩と土佐の両藩は、危惧された反対
はなく、その席で素案がまとめられています。このようにして成
立したのが「薩土盟約」です。それは、基本4箇条に続いて7条
からなるものですが、そこには倒幕論の入り込む余地はまったく
ないものです。それでも薩摩藩は同意して盟約は成立しているの
です。これについて、高知大学名誉教授である山本大氏は次のよ
うに述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩も土佐も、藩内になお根強い反対派を抱えて、藩論を一つ
 に絞り切れない弱みがあり、そこが倒幕一本の長州とちがい、
 どちらに転んでも遅れを取らぬよう、王政復古に妥協点を見出
 したのだ。だが龍馬には、和(大政奉還)でも戦(討幕)でも
 よかった。和も戦も新しい統一国家を樹立する手技に過ぎず、
 個々の藩屏などに龍馬はこだわっていなかった。だから龍馬は
 薩・長・土3藩の盟約をにらんで、まず長州と土佐の提携を画
 策した。しかし、こちらは実現を見ないうちに大政奉還を迎え
 た。                   ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 後で判明したことですが、幕府にしても大政奉還を本気でする
気はなかったし、薩摩藩としては、どういう状態になろうとも倒
幕は不可欠と考えていたのです。真の改革には流血がどうしても
避けられないのです。   ―― [新視点からの龍馬論/57]


≪画像および関連情報≫
 ●「薩土盟約」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  薩土盟約は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年6月下旬から
  同年9月上旬まで結ばれていた薩摩藩と土佐藩の間の政治的
  提携である。「薩土同盟」「薩土提携」などとも。幕府崩壊
  寸前の時期になおも政局を主導する15代将軍徳川慶喜と、
  倒幕路線をとり始めた薩摩藩が対立する中で、土佐藩が大政
  奉還・王政復古を通じて、平和的手段で公儀政体へ移行すべ
  く提起した連携案に薩摩藩が同調したものであるが、両藩の
  思惑の違いにより実行に移されることなく2ヶ月半で解消さ
  れた。               ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●NHK大河ドラマ「薩土盟約の場」──動画
http://video.fc2.com/content/%E8%96%A9%E5%9C%9F%E7%9B%9F%E7%B4%84/20101029GY6JXFz5/

大河ドラマでの「薩土盟約」の場面.jpg
大河ドラマでの「薩土盟約」の場面
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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