2010年12月24日

●「西周による大政奉還後の政体案」(EJ第2965号)

 西周は「西洋官制略考」に続き、慶喜が大政奉還を宣言した慶
応3年(1867年)10月13日の約1ヵ月後に次の2つの論
文を慶喜側近の平山敬忠に提出しています。
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         1.  「議題草案」
         2.「別紙議題草案」
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 「議題草案」というのは、公議政体の樹立が求められるなか、
大政奉還に引き続き、幕府が取り組む政策として、会議制度の創
設を提案した意見書です。
 「別紙 議題草案」は、「議題草案」に基づき作成された、徳
川家中心の政体案です。西洋の官制に倣う三権分立を取り入れ、
行政権を将軍が、司法権を便宜上各藩が、立法権を各藩大名およ
び藩士により構成される議政院がもつこととしており、天皇は象
徴的地位に置かれています。添付ファイルに全体図があります。
 しかし、西周は幕府にとって相当危険な次の提案もその中に入
れているのです。
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    世禄を減らし、門閥をなくし、兵制を整える
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 これは武士社会の廃止を説いています。武士を解体し、身分制
度によらない軍隊を作るべきであるという主張です。すなわち、
徴兵制のことをいっています。
 しかし、これはきわめて危険な思想といえます。なぜなら、西
の周りは武士ばかりであり、そのようなことが少しでも漏れたら
殺されかねないからです。倒幕派というのは幕府を倒すけれども
武士社会は温存させるという考え方であり、「幕藩体制」を「朝
藩体制」に移行させるだけです。西は、なぜそのような提案がで
きたのでしょうか。
 それはフリーメーソンというきわめて強力な味方がいたからで
す。その一人は英国のパークス公使です。彼はちょうどその時期
において、西と同じ趣旨のことを述べているのです。
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 徴兵制をしいて、農民からも兵隊を取れば、間違いなく武家社
 会は壊れる。            ──パークス英国公使
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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 一方において、「別紙 議題草案」を見ると、徳川慶喜が大政
奉還をして天皇中心の体制を築く気持ちなど最初からなかったこ
とがよくわかるのです。西としては本来あるべき姿はよくわかっ
ていたのですが、当時は幕臣としてどうしても超えることのでき
ない壁──徳川家がそこに存在したのです。
 慶喜の大政奉還の上表文には、「朝・幕同心協力」とあるので
す。これは慶喜の本心であり、これを前提として新体制を考えよ
と西に指示したのです。もし、慶喜が本当に大政奉還をする気で
あったなら、新体制の構築自体を朝廷に委ねるのが筋であるのに
自らそれをやろうとしているのです。
 そうなると、西として採るべき方策は限られてきます。幕藩体
制はこれを維持し、現況の追認の中で、天皇の権限も組み込んで
三権分立を明文化し、体制内改革を図って少しでも進んだ議会制
度を構築する──これしかなかったのです。
 この慶喜の考え方は、君主の家政(家の行政)と国政とを分離
しないで、国政を君主の家政の拡大と考える「家産国家」の構想
であり、幕臣西としてはそれによらざるを得なかったのです。
 西のいう三権分立とは次のようなものであったのです。
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   1.禁裏之権(天皇の権)
   2.政府之権 ・・・ 行政権
   3.大名の権(議政院之権) ・・・ 全国立法権
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 西は西洋の立法、行政、司法の三権分立をすぐわが国に取り入
れるのは難しいとして、「守法之権(司法権)」はしばらくの間
各国行法(地方政府)に兼ねるとしています。したがって、禁裏
之権を別類として考えると、実質二権分立なのです。
 これは幕藩体制の維持そのものです。行政権はことごとく政府
之権に属し、その政府において慶喜は元首であり、大君であり、
さらに議政院上院の議長であり、下院の解散権も有するのです。
それに対して天皇の権は、元号や尺度量衡、神仏の長、叙爵など
に限られており、法度に対しても拒否権もなく、政治的権限はゼ
ロに等しいのです。
 西周について書かれたあるブログの記事を紹介します。
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 西は学問と実践を分離して捕えている。西洋の最新の政事・政
 体を学び、その理論に理想を定めたとしても、現実の日本では
 一気にそれを導入し得ない。学問は学問として、現実の中で国
 家機構を整備する。これが西の性(さが)としての手法であっ
 た。だからこそ、西洋の学問上では過去のものである「家産国
 家」に拘泥し、君臣の道の理を守ったのである。思えば、遠く
 花の都パリにて五代友厚の、天皇を擁しての革命を視野に入れ
 ての理想と実践とを一体化した熱弁に接した時、いわば敵であ
 る筈の五代に、西は内心羨望さえ懐いたことだろう。朱子学の
 呪縛から逃れ得ない幕臣西はこのとき決断したに違いない・・
 自分は、時の君主慶喜を立て君臣の道を守る。パリの冬空の下
 12日間にも亙って西は五代と、共に語り、共に食し、共にパ
 リ見物をした。「なんじ敵する者はこれを愛せよ」(「新約聖
 書」「マタイ伝」第五章)――後年西は「明六雑誌」への投稿
 文「愛敵論」の冒頭で引用している。   西周/解説4より
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             ―― [新視点からの龍馬論/56]


≪画像および関連情報≫
 ●「家産国家」とは何か
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  家産国家とは、国家を封建制君主の私的な世襲財産と見る国
  家観。19世紀ののドイツの貴族・政治学者であるカール・
  ルードヴィヒ・ハラーの提唱した atrimonialstaatの訳。
  ハラーは著書『国家学の復興』の中において、家産国家の中
  では国内の一切の関係は君主の私的な関係とみなされ、領土
  と人民は君主の所有物であり、財産は君主の私的収入で、戦
  争もまた君主の私的紛争とされる。そのために国家が君主の
  世襲財産のように扱われ、国家の統治権(支配権)と君主個
  人の所有権(財産権)との区別が存在しないような状況に置
  かれていると説いた(国政と家政の未分離)。
                    ──ウィキペディア
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徳川慶喜の政権構想.jpg
徳川 慶喜の政権構想
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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