2010年12月22日

●「五代と西は何を話し合ったのか」(EJ第2694号)

 薩摩藩の五代友厚と寺島宗則の2人と幕臣の西周と津田真道の
2人、それにアドバイザーらしき役割を担うシャルル・ド・モン
ブラン──彼らは何を話し合ったのでしょうか。資料は一切あり
ませんが、推測してみることにします。
 会談が行われたのは、慶応元年(1865年)12月4日のこ
とです。この時期は薩長同盟は成立しておらず、龍馬はその工作
をしている時期です。将軍家茂は元気であり、まさか次の年に病
没することなど、誰も想定していないのです。もちろん大政奉還
も船中八策も出ていない時期です。
 そもそもこのパリ会談を実現させたのは誰でしょうか。それは
グラバーしかいないと思われます。しかし、グラバーの誤算は、
モンブランが五代に近づき、同席したことです。これが後で問題
になるからです。同じフリーメーソンでも、米英系のグラバーと
グラントリアンのモンブランでは考え方が相当違うことは既に述
べた通りです。
 五代友厚の立場から考えると、西と津田の両人は蕃書調所の教
授として働いている実績から、幕府が次の体制において期待して
いる優秀な人材であり、そのためのオランダ留学なので、実際に
話し合って意見を交換しておく価値があると考えたのでしょう。
 それに西と津田はフリーメーソンであり、そういう意味で薩摩
藩とか幕府とかの所属を超えた話し合いができる──そこに五代
としては期待をしたものと思われます。
 西周の立場からいうと、幕府対薩摩・長州両藩のせめぎ合いの
中で、幕府としてどのように活路を見出すべきかについて徳川慶
喜は悩んでおり、この時期に薩摩藩の俊秀と話ができることは絶
好のチャンスであると考えたと思われます。
 意見交換されたのは、薩摩藩と長州藩の今後の動きがまず考え
られます。薩長同盟はまだ成立していないものの、その動きのあ
ることについて五代は、グラバーや龍馬を通しておそらく知って
おり、そういうことも話に出たと思われます。それにこの時点で
も明確に態度を表明していない土佐藩の動向も話題になっている
と思われます。
 それに薩英戦争(文久3年/1863年)の話も出ています。
これについては、後年西が五代より話を聞いたと書き残している
ので間違いないことです。モンブランも会議に加わっており、当
然のことながら、英仏米蘭の考え方や動きも話に出ているはずで
す。そのためのオランダ留学でもあるのです。ちなみに、西と津
田は、文久2年(1862年)に勝海舟と一緒に咸臨丸で米国に
行っており、米国とオランダの事情には通じています。
 したがって、西と津田は、五代から英国の情報を知りたかった
と思われるのです。それにモンブランからフランスの情報を得る
こともでき、2人としては有意義な会談であったと思われます。
 ところで、この西周と津田真道の2人ですが、会談だけでなく
いろいろなところに行っているのです。焼物製作所見学、ヴェル
サイユ宮殿、ブローニュの森を見学し、夜にはオペラの鑑賞まで
しているのです。
 帰国後の西と津田の動きを追ってみることにします。慶応元年
(1865年)12月28日、西と津田は横浜港に帰朝し、すぐ
江戸に向かっています。しばらくは何もなく、2人は開成所の教
授をしながら、幕命による「万国公法」の翻訳を続けながら、ひ
たすら慶喜の命令を待っていたのです。
 慶応2年(1866年)9月19日に慶喜の命がきて、西と津
田は、勘定奉行小栗上野介と一緒に幕府の軍艦に乗って上京した
のです。しかし、大した指示もなく、ほぼ完成していた「万国公
法」のチェックをしていたというのです。
 一ヵ月ほど経過したとき、津田真道については、御用なしとし
て江戸に戻されています。実はこのとき、6月に第2次征長戦が
はじまり、そのさなかに将軍家茂が大阪城内で病死しており、大
騒ぎになっていたのです。
 慶応2年(1866年)12月5日に慶喜は、第15代将軍宣
下を受けたのです。慶応3年になると、39歳になった西周は、
四条大宮の更雀寺において集まって来る500人もの会津・桑名
・津・福井藩士や幕臣たちに対し、西洋法学などを教えていたの
です。そして、5月21日には奥詰を命ぜられ、将軍慶喜にも二
条城に呼び出されることが多くなったのです。
 しかし、その内容は、フランス語の基礎の講義であったり、外
国事情についての説明など、西として献策したいことは何ひとつ
聞かれることはなかったのです。
 そして、慶応3年(1867年)10月13日、突然西は慶喜
の使者から登城するよう召命を受けたのです。実はこの日の午前
10時に慶喜は二条城二の丸御殿大広間にて10万石以上の在京
諸藩40藩の重臣60〜70人を集め、午後2時頃大政奉還を宣
言したのです。
 西周は、この大広間に呼び出されたのです。このとき、薩摩藩
の小松帯刀が慶喜を前にして何やら言上していたのです。両側に
は、少し離れて諸臣列座しており、その一人設楽備中守から、西
は、小松の口上の書き取りを命じられたのです。
 この日の夕方になって、西は慶喜より、登城し大広間への召命
を受けたのです。大広間に出向くと、慶喜は大広間の脇の廊下に
障子屏風で囲った一角があり、中に入れと西を誘ったのです。そ
こで慶喜は西に対し、英国議院のこと三権の分別のことなどを諮
問したのです。西はこの瞬間を待っていたのです。
 早速概略を慶喜に説明し、帰宅後、深夜までかかって、その説
明内容を書面にまとめ、「西洋官制略考」という表題をつけて、
翌朝に慶喜側近の平山敬忠に提出しているのです。
 それにしても1866年8月の将軍家茂の病死、1867年の
孝明天皇の崩御は、開国派の慶喜にとって都合の良い出来事であ
り、疑問の残ることであったといえます。
           ―――― [新視点からの龍馬論/55]


≪画像および関連情報≫
 ●西周(にし・あまね)
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  「西家には困ったあほうが生まれたものだ」津和野の人々は
  こうささやきあったという。世に「西周の油買いと米つき」
  と評判されるほど、周の勉強は度はずれて猛烈なもので、一
  般の人の目には、変人のように映ったのである。油買いに行
  く時は、油徳利をぶらさげ、書物を読みながら歩いた。しか
  も、片足は下駄、もう一方は木履ぼくりという変な格好でも
  いっこう平気だった。米をつかせると、書物を読みふけるの
  で、気が付いたときには粉米になっていたという。少年時代
  のこの猛勉強が、後年の大学者西周を生むのである。
  http://www2.pref.shimane.jp/kouhou/esque/18/18_06a.html
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西周.jpg
西周
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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