ンなのでしょうか。モンブランについてはフリーメーンと考えて
間違いないと思います。
問題は五代友厚です。証拠はありませんが、彼もフリーメーソ
ンであったことは間違いないと考えられます。五代だけでなく、
寺島宗則もメーソンであったと思われるのです。
ここまでの話の展開における薩英戦争のさいの五代と寺島の活
躍もメーソンであれば、さもありなんと頷けるのです。五代友厚
はグラバーが一番信頼していたスタッフであり、そのグラバーの
紹介で早くからフリーメーソンに入会していたものと思われるの
です。少なくとも、パリのカラント・ホテルで五代が西と津田に
会った時点で、五代と寺島は、フリーメーソンであったと考える
方が自然であるといえます。
そう考えると、幕臣である西と津田が、なぜ倒幕を進めようと
している薩摩藩の五代や寺島と会ったのかという謎も解けてくる
のです。お互いがフリーメーソン同士であれば、その属している
組織に関係なく会っても不思議はないからです。
これに関して加治将一氏は、五代友厚は、いわゆるパリの会合
の直前にフリーメーソンになっているのではないかという仮説を
立てているのです。
慶応元年(1865年)10月7日のことですが、五代友厚と
モンブランは、ベルギーのブリュッセルへ行き、6日間滞在して
います。モンブランはベルギー生まれのフランス人であり、モン
ブランが案内したことは確かですが、何のためのベルギー行きか
については明確ではないのです。
10月11日の五代の日記を見ると、「午前より病院に行く」
と記されています。当日の五代の金銭「出入書」には「案内人へ
の謝礼」と書かれてあるのみです。病院代の支払いではないので
あり、病院行きは偽装である疑いがあります。その後五代は、モ
ンブランの紹介によって、ベルギーの皇族などに会う機会を得て
ロンドンに戻っています。
ところが、五代は10月27日にアムステルダムに行き、11
月5日にもう一度ブリュッセルに入っています。20日あまりで
再び行くとしては、ロンドンとブリュッセルはかなりの距離であ
り、20日前に行ったときには、果たせなかった用事があったと
いうことになります。
そして11月8日に何かがあったのです。そのために五代はわ
ざわざブリュッセルに行ったのです。一体何があったのでしょう
か。五代の日記によると「水曜日」とあるだけです。それが終る
と五代はパリのカラント・ホテルに向かい、西と津田に会ってい
るのです。
西と津田がパリを離れたのは12月15日のことです。しかし
五代はそのままカラント・ホテルに4日宿泊し、12月18日に
ある会合に出席しているのです。五代の日記によると、「地理学
会に出席」と書いています。
この五代友厚の行動について、加治将一氏は、フリーメーソン
入会手続きではないかとして、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
10月11日、モンブランに連れられてブリュッセルのロッジ
に入る。その時は面接と入会申込書の提出だけだ。そして翌月
の定例会、すなわち11月8日に入会の儀式を受けたのではあ
るまいか?そのために五代はわざわざブリュッセルに戻ってき
たのである。晴れてメーソンとなった五代は、パリの会合に顔
を出す。参加人数、数10名。モンブランもー緒である。それ
は表向き「地理学会」と名がついているものの、多くはフリー
メーソンで占められている。日本でも、よく「歌会」「茶会」
などと偽っては集まり、その実、謀議の場であることは少なく
なかった。それと同じだ。
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
加治将一氏の説によると、五代友厚はフランス系の「グラント
リアン」に加入した可能性が高いとしています。1773年にフ
ランスでは、フリーメーソンが英米系とグラントリアンの2つに
大分裂を起こしているのです。
グラントリアン(大東社)というのは、政治的なスローガンを
掲げることを厭わないフリーメーソンの組織なのです。その点が
政治活動を名目上禁止している米英系のフリーメーソン──正規
派──とは全く性格が異なり、「非正規派」と呼ばれているので
す。モンブランはそのグラントリアンに入会しているフリーメー
ソンであり、五代友厚も同じグラントリアンに加入した可能性が
高いといえます。
フリーメーソンには、厳粛な儀式があり、多かれ少なかれ一種
の掟に縛られるのです。現在ではそのほとんどは形式的なものに
なっていますが、当時としてはその掟が現実味のあるものであり
会員を縛ったのです。当時の武家社会でも掟はあったのです。
そのため、五代友厚は帰国後苦しむことになります。加治将一
氏はこれについて、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
薩摩藩の貿易窓口は自分一人だ、としつこく付きまとうモンブ
ランと、それに対して激怒するグラバーと薩摩藩。だがどうに
もならない。あれほどクールだった五代が、悩み、苦しみ、板
ばさみになってもなお、ぐうの音も出ず、モンブランを切れな
かった異常さは、なにかの掟が居座っていたとしたら納得でき
るものがある。
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
五代友厚がフリーメーソンであるとして考えると、パリでの西
や津田とは何を話し合ったのでしょうか。それはその後の西の行
動を見るとわかります。―――― [新視点からの龍馬論/54]
≪画像および関連情報≫
●フリーメーソンと日本グランド・ロッジ
―――――――――――――――――――――――――――
渋谷から霞ヶ関に向かう高速道路の下を通る六本木通りは、
六本木交差点で環状3号線、通称外堀東通りと交差していま
す。その外堀東通りを東京タワーに向い、飯倉片町交差点を
抜けると、町の様子は六本木の喧騒とは打って変わって落ち
着いてきます。左手に、外国の賓客を接待するための瀟洒な
外務省飯倉公館、後の電電公社、NTTとなる逓信省通信院
のあった古風なビル。右手のロシア大使館を通り過ぎて、飯
倉の交差点に来ると東京タワーが目の前にそびえています。
飯倉交差点の右前方に、そのあたりでは比較的大型の部類に
入る、白い二つのビル、メソニック38MTビル、メソニッ
ク39MTビルが目に入ります。日本におけるフリーメイソ
ンの本拠地、日本グランド・ロッジはこの二つのビルに挟ま
れた東京メソニックビルの中にあります。
http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-170.html
−――――――――――――――――――――――――――
東京メソニックビルのメーソン・マーク