ンの2人はパリに急いでいたのです。2人はライデン大学での留
学が終了し、帰国の途についていなければならないのにパリに向
かっていたのです。
パリで目指す場所は「カラント・ホテル」です。そのホテルで
は、五代友厚と寺島宗則が2人の到着を待っていたのです。その
出会いの機会を作ったのは、おそらくフェセリング教授であり、
そのバックにはグラバーがいるはずです。
1865年(慶応元年)12月4日に西と津田はパリに入り、
カラント・ホテルで五代と寺島に会っています。それから12日
間、この4人は何回も会い、何かを話し合っています。何を話し
たかの資料はいっさいないのです。そして、同年12月15日に
西と津田はパリを離れ、帰国の途についています。
この4人会談にもう一人加わっていた人物がいます。それは、
シャルル・ド・モンブランというフランス人です。この人物は何
者なのでしょうか。モンブランと五代友厚の関わりについては少
し詳しく述べる必要があると思います。
このシャルル・ド・モンブランについて、フランス文学の翻訳
家である高橋邦太郎氏は次のように述べています。
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モンブラン伯は、1832年、ベルギーに生れ、国籍はフラン
ス、容貌風采まことに優れ、挙措優雅、弁舌をよくし、文筆の
才があり、人類学、考古学、史学、地理学、語学に造詣深く、
少壮学者として相当に認められていた。日本研究については、
実情を調べるため渡航、帰国後、薩摩藩の実力者五代友厚と提
携、討幕の一翼を買い、パリ万国博において、幕府代表を打倒
し、その功によって日本総領事兼代理公使を命ぜられるに至る
のであるが、それは後の話で、ともかく、一種の風雲児である
のは否定出来ない。 ──高橋邦太郎著
『幕・薩パリで火花す』より
新人物往来社『歴史読本』の昭和45年6月号記事
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由緒ある裕福な伯爵家に生まれ、日本に関心を持つ冒険を好む
気性と若干の自己顕示欲を持つフランスの青年貴族で、それでい
て金銭欲の強い人物──それがモンブランなのです。
モンブランは、日本への興味に駈られて、自費で日本に来遊し
ています。文久元年(1861年)のことです。そのとき、横浜
で、斉藤健次郎なる青年と知り合い、意気投合してパリに連れて
帰っています。どちらにせよ、日本人の秘書が一人欲しかったの
で、そうしたのです。そのとき、モンブランは自身を「白川」と
称しており、斉藤もそれに合わせて「白川健次郎」か「白川賢」
と称していたのです。
元治元年(1864年)3月に、池田長発を中心とする幕府遣
欧使節の一行が来仏したのです。そのときモンブランはひと儲け
してやろうと幕府一行に近づき、池田長発に対し、次のようなこ
とを吹き込むのです。要するに、幕府の役人が喜びそうなことを
いって気を引いたわけです。
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幕府がとるべき道は、諸藩を廃して徳川絶対君主制を確立する
以外にない。 ──モンブラン
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池田長発はこの意見に賛成して帰国し、続いてフランスに行く
ことになった外国奉行柴田日向守(柴田剛中)にモンブラン宛て
の書状を持たせたのです。柴田はこれを無視して、モンブランを
訪ねず、会いたいといって訪ねてきたモンブランにも会おうとし
なかったのです。
このあたりの事情について、前出の高橋邦太郎氏は次のように
述べています。
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モンブラン伯は、日本からの外交使節団が来る度に、健次郎を
手先きに使って、しきりにアプローチを行った。だが、その都
度、物の見事に失敗した。これは相手の心理を理解しない結果
であった。何といっても、遣欧使節達は封建日本のサムライの
こと、大切な御用向きを持ってきているとあれば、責任上、た
とえ、相手が貴族といっても、やはり、官職を持った政府当路
の役人ではない。これと交際するのは、役目柄、絶対に出来な
いという訳である。 ──高橋邦太郎著の前掲書より
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幕府使節に相手にされなかったモンブランは、幕府をあきらめ
て今度は薩摩藩の留学生に接近しようとするのです。ちょうどそ
のとき五代友厚をはじめとする留学生たちがロンドンに滞在して
いたのです。
そこでモンブランは、「白川健次郎」を伴ってロンドンに出向
き、一行に面会を申し入れたのです。そしてモンブランは、リー
ダーの五代友厚と話し会ったのですが、幕府の人間と違い、非常
に洗練された対応に意気投合し、胸襟を開いて話し合うことがで
きたとモンブランはいっているのです。
その後、五代友厚はモンブランをパートナーとしていろいろな
行動を起こしています。しかし、モンブランの狙いは金儲けであ
り、幕府と薩摩藩を両天秤にかけているような人間であり、怪し
げな外人なのです。そういうモンブランに五代友厚ほどの人物が
易々と心を許したのはなぜなのかという疑問が当然あります。
その謎を解くカギはフリーメーソンにあります。五代もモンブ
ランもフリーメーソンだったとすると、五代がモンブランに心を
開くことはあり得ることです。
モンブランがメーソンであった可能性は高いのです。貴族とい
う身分、有力者への顔の広さからみても、その可能性はきわめて
高いといえます。それでは、五代友厚はいつメーソンになったの
でしょうか。 ――――― [新視点からの龍馬論/53]
≪画像および関連情報≫
●「外国奉行」とは何か
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1858年、日本修好通商条約締結の際、海防掛を廃止し設
置された。主な仕事は、対外交渉などの実務。人数は不定で
一時期、神奈川奉行を兼任していた。1867年にはこれを
統括する外国総奉行が設置された。1868年廃止。役高は
2000石、1年の給金は200両で、席次は遠国奉行の上
であった。外国奉行の配下には支配組頭、支配調役、支配調
役並、定役、同心といった役職があり、奉行とそれらの配下
により「外国方」という部局を形成していた。また、「外国
方」の優れた人物で形成される「御書翰掛」という重要機関
があり、そこでは調役、通弁方、翻訳方、書物方といった役
職が置かれ、外国からの文書の翻訳、外国との交渉案・外国
へ送る文書の文章案の作成などに当たっていた。
──ウィキペディア
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外国奉行/柴田剛中