一緒にオランダに留学しているのです。津田がフリーメーソンに
入会したのは1864年(文久4年)11月のことです。西の入
会が10月ですから、1ヵ月遅れの入会ということになります。
津田真道は津山藩(岡山県)の出身ですが、嘉永3年(185
0年)に江戸に遊学して、箕作阮甫、伊東玄朴らに蘭学を、また
佐久間象山に兵学を学んでいます。藩籍を脱して苦学しましたが
1857年に幕府の蕃書調所に採用され、西と一緒に仕事をする
ようになったのです。彼らはれっきとした幕府の人間です。
西と津田がオランダに留学した前後の出来事を時系列にメモし
ておくことにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
1862年 西周と津田真道がオランダに留学
1863年 長州藩、伊藤博文、井上馨ら5名がイギリス留学
1864年 西周(10月)、津田真道(11月)がフリーメ
ーソンに入会。
竜馬行方不明(10月〜65年4月)
1865年 薩摩藩、五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名
がイギリス留学、西と津田が帰国
1866年 薩長同盟 (徳川慶喜将軍に就任/12月)
1867年 津田真道『泰西国法論』発表、船中八策、大政奉
還、竜馬暗殺
1868年 明治維新 ──加治将一著
『石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史』/新潮社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
上記メモでわかるように、西と津田がオランダにいたとき、五
代友厚、寺島宗則は英国にいたことがわかります。そしてもうひ
とつ上記のメモに書き加えるべきことは、1866年の徳川慶喜
の将軍就任です。( )でメモしておきます。
1865年(慶応元年)に西と津田は帰国しますが、幕府から
開成所の教授に任命されます。勤務地は江戸です。開成所は幕府
が創設した洋学教育機関です。
1865年9月のことですが、西は徳川慶喜の重要ブレーンと
して抜擢されます。西の役割は、徳川慶喜に西欧の事情を詳しく
レクチャーすることにあったようです。
ここで重要なことは、フリーメーソンが徳川慶喜の側近として
張り付いている事実です。これは大変なことであるといえます。
何か大きな力が働かないと、こういう人事は実現しないのです。
前回述べたように、記録は残っていないものの、西とグラバー
とは接点があると思われます。仲介者はライデン大学のフィッセ
リング教授です。西も津田もこの教授の説得によってフリーメー
ソンに入会しているのです。
ここで注目すべき人物はまたしても五代友厚なのです。五代は
グラバーから最も信頼されていた人物であり、さまざまな指令を
グラバーから受けているはずです。グラバーにとっては、幕府の
要人である西と津田は、日本で革命を起こすさいの重要な手駒に
なるはずです。
当然グラバーとしては、自分の腹心である五代と西と津田に会
わせたいと考えても不思議はないのです。まして、五代、西、津
山はいずれもフリーメーソンであり、彼らが会って話したとして
も他に漏れることはあり得なかったのです。
この話は少し置き、五代友厚についてもう少し述べることにし
ます。五代は薩摩藩士ですが、倒幕の志士としての五代友厚の知
名度はきわめて低いのです。鹿児島の出身ですが、鹿児島に墓は
なく、大阪にあるのです。
鹿児島市の歴史資料館においても、西郷隆盛の人気が突出して
おり、島津斉彬、大久保利道などがそれに続いて五代友厚は完全
に脇役に位置づけられているのです。
しかし、明治新政府になって五代は初代の大阪商工会議所会頭
を務めており、大阪実業界のトップに君臨しています。ちなみに
当時の大阪は日本一の商業都市であり、東京よりも数段上であり
一時日本の首都を大阪にすることが検討されたほど、大阪は大都
市だったのです。造幣局なども大阪に設置されているのです。
しかし、故郷の鹿児島での五代の評判は今ひとつパッとしない
のです。それは「五代友厚は裏切り者。外国のスパイだ」という
風評があるからと考えられます。
ここまで述べてきたことでもわかるように、五代友厚は闇の部
分を持つ志士であったことは明らかです。そういう身辺の暗さが
五代の評判を落としていると考えられるのです。
ここにひとつの論文があります。国会図書館で加治将一氏が発
見したものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
『パリのめぐり合い』──神戸大学法学部蓮沼啓介教授論文
『神戸法学雑誌』第32巻第2号(1982年9月)
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
『パリのめぐり合い』とは、まるで映画の題名です。この論文
について、加治将一氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
なぜこの資料が20年以上も国会図書館に埋もれていたのかは
不思議だが、これは、歴史を塗り替えるほどのものと言ってい
い。闇に葬られていた事実が、とつぜん目の前に現われ、ざわ
りと鳥肌が立った。幕府と倒幕側に、極秘ルートが存在してい
たのである。いったいこんなことがあっていいのか?
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
『パリのめぐり合い』には、一体どのようなことが書かれてい
るのでしょうか。この内容については、来週に詳しく述べること
にします。 ――――― [新視点からの龍馬論/52]
≪画像および関連情報≫
●五代友厚について
―――――――――――――――――――――――――――
薩摩藩儒者の家に生まれる。通称は徳助、才助。十三歳のと
き藩主島津斉彬から世界地図を模写するよういわれて2枚模
写し、1枚は斉彬に献上、もう1枚は自分の部屋に飾って毎
日のように眺めた。23歳で長崎の海軍伝習所に学び、2年
後、長州の高杉晋作とともに上海に渡航、ドイツ汽船を購入
して帰国する。留学生の欧州派遣を建議、英国商人グラバー
の斡旋で計18人で渡欧。帰国後は藩の通商貿易に貢献し、
長崎で龍馬と出会った。大洲薄から海援隊へチャーターした
いろは丸が、紀伊藩の明光丸と衝突・沈没すると、紀伊藩の
依頼で事件を仲裁、龍馬らの主張を認めた。維新後は外国官
判事をつとめ、実業界に転じた。 ──山本 大著
『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――
五代 友厚の像