2010年12月14日

●「隠し部屋はそのために増築されたもの」(EJ第2958号)

 グラバー邸には、隠し部屋があるといわれています。加治将一
氏は次のように書いています。
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 グラバーのサポートは資金だけではなく、もっと実践的で細や
 かなものでした。その一つが、隠し部屋の設置です。グラバー
 邸の隠し部屋は、今でも天井裏に残っています。ここで五代、
 高杉など長期にわたって匿いました。邸内の壁に貼ってある観
 光説明によると、身を潜めたり、秘密の会合のために使用した
 とされています。登場人物は桂小五郎はじめ、維新のオールス
 ターキャストです。            ──加治将一著
    『石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史』/新潮社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「隠し部屋」といえば天井裏と相場が決まっており、実際にそ
うだったのでしょうが、そこに匿われていた志士たちの人数はわ
れわれが想像していたよりもはるかに多く、また、そこに滞在し
た期間も相当長期にわたっていたのです。
 そうであるとすると、狭い天井裏に大勢の志士たちが長期間に
わたって潜んでいることは困難です。前回も述べたように、グラ
バー邸は当時ほぼ要塞化しており、よほどのことがない限り、長
崎奉行所が立ち入ることが困難であったということから、平時は
比較的自由に生活していたものと思われるのです。
 グラバーはそういう志士たちのために部屋を増築し、万一の場
合に備えて屋根裏部屋も用意していたと思われます。それは、グ
ラバー邸の4次にわたる増築設計図を見るとよくわかるのです。
 添付ファイルを見ていただきたいと思います。これは、山口由
美氏の著書である『長崎グラバー邸父子二代』(集英社新書)に
出ている貴重な資料です。
 建築当初の1863年当時の間取りを見ると、隠し部屋を疑わ
せるものはまったくないといえます。もっともこの時点でのグラ
バーのビジネスの中心は茶葉の再生であり、政治とは無縁であっ
たので、当然のことです。
 重要なのは、1865年〜1868年(慶応元年〜慶応4年)
の2次の増築です。この時期はまさに革命の中心的時期であり、
志士たちの出入りが一番多かった時期であるといえます。
 この時期にグラバーは隠し部屋を作っているのですが、それは
今まであった場所を転用したものではなく、わざわざそのために
金をかけて増築したものだったのです。それが中二階の2つの小
部屋です。食堂の左側にそれはあります。
 それらの小部屋は、1877年(明治10年)には完全になく
なり、大食堂になっています。3次の増築です。それが1887
年(明治20年)には、さらにさまざまな増改築が行われていま
す。第4次の増築です。
 一体グラバーは志士たちのためのこのような隠し部屋まで作っ
て何をしようとしていたのでしょうか。
 最初にやったのは「密航の手引き」なのです。徳川幕府の時代
は、海外への渡航はもちろん国禁です。たとえ漂流してもいった
ん海外に出た者は帰国すると死罪になったほどです。そんな時代
に密航を手引きする行為は、幕府の掟を犯す行為なのです。
 しかし、グラバーは「逃がす」ための密航ではなく、見聞を広
め、海外の進んだ知識を学ばせるための密航──つまり、密航留
学生の派遣を助けたのです。
 幕末における密航留学生の代表的なものは、長州藩の5人──
「長州ファイブ」と薩摩藩の19人──「薩摩スチューデント」
がよく知られています。
 この長州ファイブと薩摩スチューデントには大きな違いがある
のです。長州ファイブが藩ではなく、個人の熱意によって実現し
たものであり、それを藩が黙認したものです。当時長州藩として
は、攘夷論を支持していたからです。長州ファイブの詳細につい
ては、既に述べています。
 薩摩スチューデントについては、藩の全面的支援を受けてのも
のです。もともと薩摩藩は、安政4年(1857年)の時点で藩
主、島津斉彬公による留学生派遣構想があったのです。領地であ
った琉球を経由地とする壮大な構想だったのです。
 しかし、島津斉彬公の急逝によって計画は頓挫してしまったの
です。しかし、それから8年後にこの計画は復活するのです。そ
れを仕掛けたのは、五代友厚です。
 グラバーと五代友厚は、文久4年(1864年)に五代が長崎
に潜入していたときに知り合い、親密になっていたのです。大塚
孝明氏の論文に次の記述があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラヴァーは、五代のすぐれた才覚と日本人としての比類のな
 いその開明理論に驚嘆すると同時に、この一徹な若い青年武士
 に特別の好意をもって接したらしい。いわば、お互いにウマが
 合ったのであろう。(中略)おそらくグラヴァーの邸にたびた
 び出入りするうちに、毎日のようにグラヴァーのもとに入って
 くる国際情報を聞くにつけ、五代はじっとしておれない心境に
 たたされたのであろう。          ──大塚孝明著
           『薩摩藩英国留学生』/──山口由美著
     『長崎グラバー邸父子二代』/集英社新書0559D
―――――――――――――――――――――――――――――
 1865年に五代友厚は、当時の薩摩藩の事実上の藩主である
久光に「留学生派遣」の計画書を提出したのです。久光は亡き斉
彬の遺志であり、承認を与えて直ちに実行に移されたのです。
 五代から話を聞いたグラバーは、留学生派遣に関わる一切の実
務を引き受けたのです。選ばれたメンバーは19人──留学生は
15人、その他外交使節としてプロジェクトの首謀者である五代
友厚のほか、松木公安、新納久脩、それに通訳であったのです。
海外渡航は重罪の時代であり、全員が変名を名乗るなど、計画は
密かに入念に準備されたのです。 [新視点からの龍馬論/49]


≪画像および関連情報≫
 ●五代友厚上申書に関するブログ
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  「五代才助上申書」は薩摩藩英国留学生計画の元になったと
  いわれるもので、『薩藩海軍史 中』(公爵島津家編輯所編
  昭和3)に全文が掲載されています。この上申書では、富国
  強兵の方法を上申していますが、留学費用の捻出方法や購入
  する軍備や機械などについても細かく言及されています。上
  海への渡航経験があり、文久遣欧使節として渡欧経験のある
  寺島宗則と親交があり、グラバーなどから欧米の情報を入手
  していたとはいえ、「上申書」を読んでみると五代という人
  の見識の高さに驚かされます。
http://satsuma-student.potika.net/blog/23.html?AC=e0c21a13b8852fce7a37dbf03932cb38
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グラバー邸増改築の変遷.jpg
グラバー邸増改築の変遷
posted by 平野 浩 at 04:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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