2010年12月13日

●「一種の解放区になっていたグラバー邸」(EJ第2957号)

 今回のテーマで、トーマス・グラバーがはじめて登場したのは
EJ第2938号からです。ここからしばらくグラバーに絞って
彼のやったことを見ていくことにします。
 グラバーは20歳の前半の若さで長崎に上陸し、それ以来、彼
がやったことは日本の革命──明治維新において主導的な働きを
果たしたことです。そんなことが、日本から見て一介の外国人の
青年に過ぎないグラバーになぜできたのでしょうか。
 それは英国政府と結びついたある強力な組織がグラバーをバッ
クアップしなければできることではないのです。これについて、
加治将一氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 革命などと一口に言いますが、むやみやたらに企画できるもの
 ではありません。それなりの土壌があり、ちゃんとした革命思
 想と冷静な情勢分析が必要になつてきます。幕府はどうなって
 いるのか?対抗勢力はだれで、力はどのくらいあるのか?こう
 した情報収集能力がなければならず、その辺の、ちゃらちゃら
 した兄ちゃんではとうてい無理な話なのです。日本語のできな
 いグラバーに、なぜもろもろのことが可能だったのか?英国の
 青年が、なぜ倒幕を画策し、実行するだけの思想と力がそなわ
 っていたのか?考えれば考えるほど、グラバー単独での行為と
 は、にわかに信じられないことが分かってきます。
                      ──加治将一著
    『石の扉/フリーメーソンで読み解く歴史』/新潮社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラバーがまずこだわったのは、自身の住居にするための土地
の購入です。幸いグラバーの前任者であるジャーディン・マゼソ
ン商会のケネス・ロス・マッケンジーが海岸沿いの大浦二番とい
う、一等地を手に入れてくれていたので、グラバーはそれを引き
継いでそこに屋敷を建てたのです。それがグラバー邸です。これ
は自宅というよりも、グラバーの商売上の接待所ならびに工作の
拠点として位置づけられていたのです。
 グラバー邸の眺望は素晴らしく、真正面には長崎港、90度右
には長崎の市街が一望できます。もし、兵が陣を築くには絶好の
立地であり、ここで武装されると、容易には攻め込むことが困難
な場所なのです。
 長崎奉行所としては外国人を敵として扱い、海岸縁の狭い居留
地に押し込めたいところであるのに、このような自然の要害のよ
うな場所を英国人に提供せざるを得なかったのは、それだけ英国
の力が強く、ほとんど奪われるに等しい状態で占有されたものと
思われるのです。
 マッケンジー自身は、ジャーディン・マゼソン商会に対して次
のような書状を送っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・長らく待たされ、さんざん苦労した末に、私はかなり好条
 件の年間借地料と引き換えに広大かつ景観に恵まれた山腹の土
 地を手に入れることができましをが、それについてはグラバー
 氏が今後責任をもち、その地に800ドルの費用をかけて近々
 バンガロー(ベランダ付きの平屋)を普請することになりまし
 ょう。                  ──山口由美著
     『長崎グラバー邸父子二代』/集英社新書0559D
―――――――――――――――――――――――――――――
 グラバー邸は、1863年(文久3年)の建築です。日本人大
工による擬洋風建築ですが、これは南方の植民地に展開したコロ
ニアル建築の系譜です。これについて、建築家の藤森照信氏は、
グラバー邸について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アジアで誕生したヴュランダがイギリスに紹介された時、かの
 地の人々は、軽さ、明るさ、光と風、豊かな自然、といった南
 方的なイメージを感じとり、イギリス南部の保養地の住宅に小
 さなヴュランダ状の張り出しを設けてまだ見ぬ南方をしのんだ
 りしたものだが、そうしたイギリス人の南方ロマンチシズムを
 現地においてグラバー邸くらいきれいに形にしてみせた例はな
 い。             ──山口由美著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時のグラバー邸の庭には大砲がすらりと並び、長崎の市街と
航路を睨んでいたといわれています。さらに「鳥撃ち」と称する
銃を持った警備兵が巡回し、一個小隊に匹敵する軍事力を備えて
いたので、何かが起こっても、長崎奉行所が容易には踏み込めな
かったといわれています。
 さらに頻繁に接岸する英国の軍船に乗っている兵隊を外国人居
留地の背後に広がるグラバー邸敷地までテントを張って駐留させ
るなど警備は厳重だったのです。それでいて、長崎奉行所には土
産と称して十分な金品を与えていたので、グラバー邸は幕府の力
の及ばない一種の解放区のようになっていたのです。
 このため、反カトリックの運動家や維新の志士たちがグラバー
邸を隠れ家として利用するようになったのです。たとえグラバー
邸に志士たちが集まっているとわかっていても、長崎奉行所とし
ては、よほどのことがない限り、邸内に入ることはきわめて困難
であったといえます。
 ところで、EJ第2938号では、グラバー邸内の庭園には、
フリーメーソンのマークの付いた石碑があったことを述べたが、
これについてウィキペディアでも次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・
 ラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築。1863年の建
 築。裏手には馬小屋や貯蔵庫なども残っている。フリーメイソ
 ンのマークもある。          ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
             ―─ [新視点からの龍馬論/48]


≪画像および関連情報≫
 ●グラバー園に移されたフリー・メイソンロッジの石柱?
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  「フリーメーソン・ロッジの石柱」とありますが、説明には
  この門が「ロッジ=支部」の門であることは謳われていませ
  ん。ボランティアのガイドのおじさんが「リンガーはフリー
  メーソンだった」と言われていましたが、門柱は1966年
  に長崎市に寄贈されてリンガー邸の隣に移されただけなので
  これもまた根拠がないように思えます。グラバーがフリーメ
  ーソンという説もまた根拠がなく、グラバーが援助した三菱
  財閥がフリーメーソンの影響下にあるとか、三菱グループ首
  脳が今も秘密裡に品川の開東閣でメーソンの儀式を行ってい
  るという話もまた「都市伝説」なのでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/e3f44a0794c0eb4b0ac34c39895053e0
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グラバー邸とメーソンの石碑.jpg
グラバー邸とメーソンの石碑
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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