2010年12月09日

●「船中八策の原案は誰が作ったか」(EJ第2955号)

 いろは丸の始末がついたので、後藤象二郎と龍馬は土佐藩船・
夕顔丸に乗って京都に向かっています。山内容堂公に命ぜられて
の上京です。ちょうどそのとき京都ではあの四候会議が開かれて
いたのです。龍馬が同道したのは、後藤からそれを求められたか
らです。慶応3年(1867年)6月9日のことです。
 夕顔丸は10日に下関に寄港し、明石沖で船腹が暗礁に触れて
浸水するという事故に遭いながらも12日の朝に兵庫に到着して
います。この航海中に龍馬が後藤象二郎に示したとされるのが、
後に「船中八策」といわれるものです。
 しかし、この「八策」は船に乗るのを待って提示されたわけで
はないのです。それ以前から龍馬は後藤に基本的なプランを示し
2人で意見交換をした結果、後藤は容堂公の意向や藩の動向に合
わせて内容の修正をさせています。そのうえで、後藤は龍馬に京
都への同道を求めたのです。
 「船中八策」という言葉が使われたのは、昭和元年(1926
年)刊行の『坂本龍馬関係文書』(編者/岩崎鏡川)からであり
それ以前はこの表現は使われていないのです。
 しかし、その時点で後藤と龍馬の間には大きな思想的な違いが
存在したのです。後藤は、あくまで幕府との武力衝突を避け、将
軍自ら大政を奉還し、天皇の下に列藩会議を開いて、議長に将軍
を据えるという考え方です。
 これに対して龍馬は、近代的国家を目指していて、中心に据え
る議長を特定しておらず、その実現のためには「和」も「戦」も
ない、大所高所から八策を練り上げているのです。
 しかし、八策の文面上は後藤、龍馬どちらの考え方も入ってい
るので、意見がまとまったものと思われます。容堂公が後藤に上
京を命じたのは、京都における土佐藩の不利な政局を何とか打開
させるためであり、後藤はそれに八策を使おうとしたのです。し
たがって、2人が夕顔丸の船中で議論し、まとまったものを海援
隊士で龍馬の秘書をしていた長岡謙吉がまとめたので、「船中八
策」と称せられたとも考えられます。
 船中八策の全文は、添付ファイルを参照していただくとして、
それをまとめると次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.政権を朝廷に返す
    2.上、下院を設ける
    3.人材はいろいろな階層から広く募集する
    4.外交を確立する
    5.新たに憲法、法律を作る
    6.海軍の強化
    7.首都防衛の近衛兵の設置
    8.通貨の整備
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 問題はこの八策の原案モデルを提供したのは誰かということで
す。まさかあの時代において龍馬がこれだけの知見を有し、これ
ら八策のすべてを考え出したとはとても思えないのです。
 しかし、八策を提言したのは紛れもなく龍馬自身であり、その
ウラには何かがあります。加治将一氏によると、原案はグラバー
とアーネスト・サトウであるというのです。すなわち、英国様式
がそのまま原案になっているからです。
 当時の日本が維新のモデルにすべき国といえばフランスと英国
があります。幕府は軍事体制などはフランスを参考にし、薩長や
土佐は英国の影響を強く受けています。しかし、天皇のいる日本
としては、共和制と帝政を繰り返すフランスよりも、王室の伝統
が続く英国の方がよりなじめるといえます。
 記録によれば、後藤象二郎や西郷隆盛はアーネスト・サトウを
たびたび訪ねて議会政治の話に耳を傾けていたといわれます。当
時としては、そのようにして外国人の指導を受けなければ何もわ
からなかったのです。龍馬はその点グラバーや彼を通してアーネ
スト・サトウとも何回も会い、そういう情報を受けていたと思わ
れるのです。
 ところで、アーネスト・サトウといえば、彼が当時の英字新聞
「ジャパン・タイムズ」に寄稿したとされる論文『英国策論』が
あるのです。その骨子は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条
   約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行
   条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行でき
   ないものである。
 2.独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
 3.現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び
   日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは明らかに革命論です。このアーネスト・サトウと思われ
る一文に対し、グラバーは横浜の日本語新聞『横浜新報』に次の
ように書いて、その思想を煽っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『ジャパン・タイムズ』の中に大君(将軍)一人と条約を結ぶ
 代わりに諸大名と新たに結約せんとの説を称挙せる箇条あり。
 この箇条はすでに翻訳を経て高貴な人の間に流布し、その人々
 も大いにこの説を喜べるのは世人の知るところとなるべし。
       ──1866年8月27日付、『横浜新報』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 革命を語った『英国策論』に日本中が諸手をあげて歓迎してい
るという記事になっています。明らかにグラバーもサトウも維新
後の日本の体制に影響を与えようとしています。なお、『英国策
論』はサトウが書いたとされていますが、寄稿は匿名であり、本
人かどうかは不明です。  ―─ [新視点からの龍馬論/46]


≪画像および関連情報≫
 ●「船中八策」作成に坂本龍馬が関与していない可能性
  ―――――――――――――――――――――――――――
  幕末史あるいは坂本龍馬に興味のある方ならば、慶応3年6
  月に、長崎から京都に上京する船の中で、坂本龍馬が土佐藩
  重役の後藤象二郎に提示したと言われる「船中八策」という
  政治綱領の存在はご存じでしょう。1965年には、「船中
  八策」について次のような記述があります。長崎から上京す
  る船中で、龍馬は後藤に、新しい国家の体制について意見を
  のべた。もはや、幕府を従来のまま存続させることはできな
  い。天皇を中心にした国内の統一こそが必要であるというの
  だ。こうして新しい国家の体制についての八ヵ条の要項を、
  長岡謙吉に書かせたのが、世に有名な「船中八策」である。
http://tosa-toad.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_1daa.html
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●図表出典/山本 大著/『坂本龍馬/知れば知るほど』/実
  業之日本社

「船中八策」.jpg
「船中八策」
posted by 平野 浩 at 04:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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