の裏でひどい目に遭った藩があるのです。といっても、莫大な賠
償金を支払わされた紀州藩ではないのです。
それはいろは丸を土佐藩に貸し出した四国の小藩、伊予大洲藩
なのです。しかし、大洲藩はいろは丸が沈没した場合は、代わり
の船を土佐藩からもらえる約束になっており、実際にその約束は
履行されているのです。
それではなぜ大洲藩はひどい目に遭ったのでしょうか。
それを明らかにするには、そもそも大洲藩がどうしていろは丸
を手に入れたかについて知る必要があります。実は大洲藩のいろ
は丸の購入には、坂本龍馬と五代友厚がからんでいるのです。
慶応2年(1866年)といえば、各藩は時局に対応するため
軍備に余念がなかったのです。6万石の小藩である大洲藩も、軍
備拡張のため、小銃300挺を購入するため、長崎に専門家の藩
士を派遣したのです。それが砲術の専門家である国島六左衛門な
のです。慶応2年6月のことです。
国島は長崎で龍馬や五代に知り合うのです。龍馬と五代は小銃
など購入しても真の軍備にはならないので、船を購入すべきであ
ると説いたのです。実は龍馬と五代のあたまの中には、斡旋すべ
き船があり、それがいろは丸だったのです。
もともといろは丸は薩摩藩が所有していた船であり、亀山社中
が運航していたのですが、オランダ人のボードウィンに売却した
のです。おそらく国島は「蒸気船を買っても動かせない」といっ
て反対したはずです。それに対して龍馬は亀山社中から人を出し
運航するので心配はないし、大洲藩には賃貸料が入るということ
で納得させたと思われるのです。
国島は2人の説得に乗せられてしまい、いろは丸を購入するこ
とを独断で決め、藩から持ってきたお金を手付け金として支払っ
てしまったのです。
しかし、国島はその越権行為によって自害することになるので
す。いろは丸購入の残金が自身では調達できず、いろは丸の出港
の前日に長崎で自害してしまうのです。大洲藩としては手付け金
が支払われているので、やむなく残金を支払い、船は大洲藩のも
のになったのですが、国島が切腹したことで、船の運航を亀山社
中がするという話は実現しなかったのです。
大洲藩としては、計画にない船を購入し、国島六左衛門という
有能な砲術士を失ったことで大きな損害を受けています。ところ
が船を手に入れてみると、思っていたより素晴らしい船であった
ので、これを自藩で運航しようという気になったのです。
しかし、海援隊が発足することになり、土佐藩との船の借り上
げ交渉によって、半年後に龍馬の願いがかない、海援隊がいろは
丸を運航することになったのです。そして、最初の航海で沈没し
てしまうのです。どこまでもついていない船です。
土佐藩はいろは丸の代わりにセイボルンという英国船を大洲藩
に提供します。この船は大洲藩によって「洪福丸」と名づけられ
たのですが、結局運航は土佐藩の海援隊にまかされ、海援隊は、
「横笛丸」として運航することになったのです。
しかし、大洲藩としては賃貸料は入るものの、船はずっと海援
隊が使っているので、藩で引き取ろうということになり、土佐藩
と交渉して引き取る予定になっていたのです。
ところが横笛丸は官軍に押収されてしまうのです。北越戊辰戦
争に向かう官軍の「東北遊撃軍」を輸送するために押収されたの
です。長崎に残っていた海援隊士も、横笛丸に乗って東北遊撃軍
に参加しているのです。
戊辰戦争が終了すると、横笛丸は現状のままで大洲藩に返還さ
れたのですが、それはボロボロの状態であり、とても使える状態
ではなかったのです。このようにして、大洲藩はいろは丸を購入
したことで、散々な目に遭ったというわけです。
もうひとつ、いろは丸を沈没させて大損をさせられた紀州藩に
ついて、同藩が海援隊のお陰で救われた事件があります。龍馬の
死後のことであり、いろは丸事件の一年後のことです。
慶応4年(1868年)1月のことです。鳥羽伏見の戦いで幕
府軍は敗北しますが、その敗残兵の一部が和歌山に逃げ込んでき
たのです。紀州藩は徳川家のひとつであり、それらの敗残兵を受
け入れ、いろは丸を沈没させた明光丸を使って彼らを江戸に送還
したのです。紀州藩としては当然のことをしたのです。
しかし、朝敵に加担したということでこれが新政府から問題に
されることになります。ちょうど鳥羽伏見の戦いで官軍になった
新政府軍は東征を開始していたのですが、紀州藩には重い軍役が
科せられたのです。軍隊を参加させるとともに軍資金15万両の
献納を命ぜられたのです。しかし、当時の紀州藩の財政では15
万両などとても出せず、とりあえず3万両を献納したのです。困
り果てた紀州藩は、ある海援隊士に新政府への陳情を依頼するの
です。その海援隊士とは陸奥宗光のことなのです。
陸奥宗光は、紀州藩の要人伊達宗広の六男だったのです。しか
し、陸奥が10歳のときに父が政争に敗れて失脚し、蟄居させら
れるのです。そして、300石の知行も召し上げられ、城下から
追い出されたのです。
その後、陸奥は15歳で単身江戸に向かい、苦学の末に龍馬と
出会うのです。そして神戸海軍塾の頃から龍馬と行動を共にし、
やがて海援隊の幹部に昇進するのです。紀州藩としては今更救い
を求める相手ではなかったものの、他には誰もいなかったので、
恥をしのんで陸奥に頼ったのです。
陸奥は自分は土佐藩士であり、紀州藩には恨みしかないといっ
て断ったのですが、結局一肌脱ぐことになったのです。陸奥は新
政府軍と折衝し、既に支払った3万両を紀州藩に返却させ、精鋭
5000名を送るということで決着させたのです。
このように紀州藩は海援隊との関係があったので、藩として危
ないところで救われることになったのです。運命とは不思議なも
のであると思います。 ―─ [新視点からの龍馬論/45]
≪画像および関連情報≫
●陸奥宗光の思想を考える
―――――――――――――――――――――――――――
司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」は何度も読んだことを話して
いたが、私の中の陸奥宗光像はもっぱらこの本によって形成
されたものである。本の中での陸奥宗光は龍馬の作った「海
援隊」の一員であり、その中でも優秀な人物の一人だった。
龍馬に心酔して行動を共にしていた若者であったと記憶して
いる。日清戦争の時に優秀な外務大臣として活躍した陸奥の
姿との共通点はあまり見出せないでいたので、もっぱら自分
の中の陸奥像は、海援隊員としてのそれだったような気がす
る。http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj031123.html
―――――――――――――――――――――――――――
陸奥 宗光