2010年12月03日

●「後藤はなぜ龍馬を受け入れたか」(EJ第2951号)

 慶応2年(1866年)3月のことです。高知城下の九反田に
土佐藩の開成館が建てられたのです。ここでいう「開成」という
言葉は、「易経」に出てくる「開物成務」からきており、人知を
開発し、事業を成し遂げさせることをいうのです。つまり、開成
館とは、殖産興業と富国強兵をめざす土佐藩の技術教育の機関な
のです。
 もともとこの構想は、かつて土佐藩を一手に動かしていた吉田
東洋の考え方なのですが、吉田東洋が暗殺されたため、構想が宙
に浮いていたのです。それを前土佐藩主の山内容堂が取り上げて
開成館ができたのです。開成館発足に当って山内容堂は次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われらの南海捕鯨の事業は大きな利益をあげてはいるが、術を
 尽くしたとはいいがたい段階にある。このたび、新しい術を開
 拓するために、大海に船を出し、南海諸島にも航海させて島民
 をやとい、捕鯨の術を伝授することにした。いずれは藩外の開
 拓をもめざすつもりである。        ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 この案を作ったのは、後藤象二郎をはじめ、村田仁右衛門、堀
部佐助、森権次、百々茂猪、由比猪内の6人です。これら6人は
開成館の奉行に任命され、それを総括するのは後藤象二郎です。
 後藤象二郎は、殺された吉田東洋の甥であり、東洋亡きあと大
監察役も務めているのです。開成館の本部は高知にありますが、
何をするにも長崎を窓口にしないと成果が上がらない時代である
ので、長崎に進出し、出張所を設けることにしたのです。この出
張所は「土佐商会」と通称されるのです。
 長崎に出張所を設けるのは難しいことではありませんが、長崎
貿易を推進するには、出張所を運営する組織を作り、スタッフを
配置することは容易ならざることなのです。
 しかし、後藤象二郎には内心密かに期するひとつの案があった
のです。それは坂本龍馬の率いる亀山社中と組むことです。なぜ
なら、亀山社中の持つ海運経験は十分信頼に値するものであり、
それに加えて現時点で、彼らの事業がうまくいっていないことを
後藤は知っていたからです。
 問題は、亀山社中のスタッフの多くは土佐勤王党の党員であり
後藤は土佐勤王党を弾圧した頭目であることです。後藤は慶応2
年(1866年)7月頃から長崎にやってくるようになったので
すが、亀山社中の面々は「後藤斬るべし」と主張する者が多くい
たのです。しかし、後藤は龍馬であれば、過去にとらわれず、未
来志向で対応のできる度量があり、社中の反発は龍馬のリーダー
シップでまとめられると考えていたのです。
 龍馬に話をもってきたのは、土佐藩の九州探索方を務める溝淵
広之丞。溝淵は龍馬がはじめて江戸に出たときの幼友達であり、
一緒に剣術を修行した仲間だったのです。このとき溝淵は龍馬に
次のように説いたといわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 貴殿は何故に脱藩者の境遇を続けているのか。土佐藩のことを
 思わないのか。父母の国のために尽力するのが正義の道という
 べきものではないか。            ──高野澄著
           『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この溝淵の言葉に対して龍馬はどういう返事をしたかについて
は「関連情報」を参照していただきたいが、溝淵は、後藤象二郎
が龍馬に会って話したいという意向を伝えたのです。期日は慶応
3年1月某日、場所は長崎の料亭の清風亭においてです。社中の
スタッフは罠だといい、危険だと反対したのですが、龍馬は「会
う」と返事をしているのです。
 後藤としては龍馬の航海術を使って土佐藩の貿易を推進させた
かったし、龍馬としても一人で天下国家に立ち向かうよりも、土
佐藩24万石をバックに持った方が有利だと考えたからです。も
ちろん、上士の後藤と下士の龍馬は、それまで一度も会ったこと
はなかったのです。
 しかも土佐藩の重役の後藤が下士の龍馬を料亭に招待するなど
ということは当時はとても考えられないことなのです。大河ドラ
マの『龍馬伝』の後藤象二郎役の青木崇高の演技は態度が尊大で
あり、あまり知性は感じられなかったように思います。土佐尊皇
党を弾圧していたときの後藤のイメージのままです。
 清風亭会談の結果について、龍馬の研究家である菊地明氏は次
のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 後藤は弾圧当時の後藤ではなかった。過去は過去として水に流
 し、龍馬の長崎での愛妾・お元までも席に呼んで龍馬をもてな
 した。無条件で龍馬と社中を迎え入れようとしたのだ。翌日の
 朝まで続いた会談の内容は伝わっていないが、社中のメンバー
 が「後藤は如何に」と問うと、龍馬は「近頃、土佐の上士中に
 珍しき人物ぞ」(『維新土佐勤王史』)と評し、後藤があえて
 過去の出来事については触れずに大局のみを語ったこと、酒席
 での話術に才気を感じたことをその理由としてあげたという。
     ──菊地明著『追跡!坂本龍馬/旅立ちから暗殺まで
           の足どりを徹底検証』/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応3年(1867年)4月、長崎の小曾根家の別邸を本部と
して、亀山社中が改組されるかたちで海援隊が発足したのです。
後藤は無条件で龍馬たちを受け入れたのです。
 亀山社中のほか、長岡謙吉、野村辰太郎、吉井源馬、佐々木栄
などが加わり、さらに水夫が増員され、50人規模の人数で発足
したのです。海援隊隊長はもちろん坂本龍馬です。これで龍馬は
隊員たちの給与を工面する苦労から解放されたのです。
             ―─ [新視点からの龍馬論/42]


≪画像および関連情報≫
 ●溝淵広之丞の疑義に対する龍馬の返答
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「情のために道に惇り、宿志の踵蹟を恐るるなり。志願はた
  して就ずんば、後何為にか君顔を拝せんや」
  (口語訳)
  君父の国、父母の国とは情の次元の問題だである。情に引か
  れて志願を成就できなくなるのが怖いから、あえておのれは
  脱藩の境遇を続けている。         ──高野澄著
           『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

後藤象二郎.jpg
後藤 象二郎
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。