2010年12月02日

●「慶喜の粘りと四候会議の失敗」(EJ第2950号)

 徳川慶喜は将軍の地位に就くと、幕府勢力立て直しのために矢
継ぎ早に改革を行ったのです。幕府機構の改革に続き、フランス
公使ロッシュの助言を入れ、英仏米蘭の4ヶ国代表を大阪城に招
いて公式会見を行ったのです。
 この公式会見の意図するところは、外国の代表に対して日本の
主権者は幕府であることを改めて認識させるとともに、国内に幕
府と将軍の権威を高めることにあったのです。
 この席で薩長支持派の英国公使のパークスは、実行されていな
い兵庫の開港を迫ったのです。兵庫の開港については勅許は得ら
れておらず、しかも開港の期日は幕府が締結したロンドン覚書で
5年延長され、慶応3年(1867年)12月7日になっていた
のです。
 しかし、慶喜は12月5日に将軍になったばかりであり、あと
1年しか日がなかったのですが、勅許を得ていないにもかかわら
ず、次のように宣言し、開港を約束したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  国法にしたがい、祖宗以来の全権をもって条約を履行する
                      ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在の菅政権はすべて八方塞がりで何もできないように見えま
すが、国政のトップとしての首相の権限は大きく、その気になれ
ばリーダーシップを発揮して何でもやれるはずです。慶喜は将軍
後見職のときから、将軍としてはいま何を成すべきかをつねに考
えて行動してきたので、将軍に就くや否や直ちに改革に着手でき
たのです。菅氏も鳩山前政権のときは副総理であったのですから
それを考えることはできたはずです。
 慶喜の公式会見は成功し、幕府は外交面でも大いに権威を高め
たのです。この慶喜の水際立った采配を見て、薩摩を中心とする
倒幕派は焦ったのです。このままでは再び徳川の天下に戻りかね
ないからです。
 そこで、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、それに倒幕派の公
卿の岩倉具視が動いて仕掛けたのが、四候会議なのです。会議開
催の目的は、そこで長州寛大処置と兵庫開港を討議して時局を収
拾することです。しかし、それは建前であり、勅命を無視した慶
喜の罪を問責し、将軍職を奪って一大名に追い込むという計画で
あったのです。この四候会議の四候とは次の4人です。
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          山内容堂(土 佐)
          伊達宗城(宇和島)
          島津久光(薩 摩)
          松平春嶽(福 井)
―――――――――――――――――――――――――――――
 西郷隆盛が山内容堂と伊達宗城を誘い、小松帯刀が松平春嶽を
説得したのです。これは薩摩藩の思惑によって開かれた会議であ
るといえます。
 慶応3年5月14日、二条城で四候会議は行われたのです。そ
こで慶喜は「開港勅許にご協力願いたい」と要請したのです。し
かし、薩摩の島津久光は「開港よりも長州処置が先である」とい
い、反対したのです。
 薩摩藩の作戦としては、兵庫開港勅許を遅らせ、幕府を苦境に
追い込み、裏で大久保利通と岩倉具視がそのための朝廷工作を受
け持っていたのです。
 しかし、このように強引な薩摩のやり方に山内容堂と松平春嶽
はついて行かず、四候会議は何も決められないまま、5月末に事
実上解散してしまったのです。
 「してやったり」と慶喜は次の手を打ったのです。老中や京都
所司代を連れて宮中に参内し、兵庫開港と長州寛大処置を奏請し
たのです。とくに兵庫開港に関しては、諸外国からは開港半年前
(6月7日)までに国内にその旨を告知することが求められてお
り、何としても5月中の勅許が必要であったため、慶喜は強い決
意をもって朝議に臨んだのです。
 本来朝議は、朝命によって召集されたはずの四侯も全員が列席
すべき立場であったのですが、すでに半ば諦め気味の雰囲気が漂
い、結局松平春嶽と伊達宗城の2人が参席しただけです。しかし
慶喜の意気込みにもかかわらず、朝廷側の抵抗も激しく、「先帝
の御遺志」を盾に兵庫開港許可を拒んだのです。
 朝議の進行を司る二条摂政は結論の先延ばしを画策しようとし
ますが、夜半の休憩中にも慶喜は春嶽に「今回ばかりは議決する
まで何昼夜かかっても退去しない覚悟である」とその決意のほど
を示し、驚異的な粘りを見せて勅許を求めたのです。
 そして、翌日未明に至り、あまりの会議の長さに散会しようと
した二条摂政が大納言鷹司輔政に次のようにいわれるに及んで、
流れが変わったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 天皇も将軍も良しとする勅許をこの会議で決められないようで
 は天下は乱れ、朝廷も今日限りである。 ──大納言鷹司輔政
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを機に朝臣らも二条摂政の優柔不断を責める流れとなり、
ついに明け方摂政が折れ、兵庫開港および長州寛典論を奏請し、
明治天皇の勅許を得ることが決定したのです。これは慶喜の粘り
勝ちといえます。
 慶喜が主導して徹夜の朝議で勅許を勝ち取ったことは、一連の
政局における慶喜の完全勝利と四侯会議側の敗北を意味していた
のです。これに敗北した薩摩藩は戦略の変更を余儀なくされ、そ
の後ますます倒幕に傾斜していくのですが、土佐藩の山内容堂は
薩摩との距離を置きはじめたのです。
 薩摩、長州、土佐──維新革命の先陣を切っているこれら3藩
はその後、維新後の主導権を巡って激しく争っていくことになる
のです。         ―─ [新視点からの龍馬論/41]


≪画像および関連情報≫
 ●兵庫開港と徳川慶喜
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  慶応3年12月7日、各国の艦隊が停泊する中、神戸は無事
  開港した。その直後の慶応4年1月3日(1868年)、鳥
  羽・伏見の戦いが勃発した。戦いに敗れた徳川慶喜は1月6
  日夜(1月30日)、開港したばかりの兵庫沖に停泊中の米
  国軍艦イロコイに一旦避難、その後幕府軍艦開陽丸で江戸に
  脱出した。また、その直後の慶応4年1月11日、備前藩と
  神戸停泊中の各国の兵士との銃撃戦となった神戸事件が発生
  している。             ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

四候会議の四候.jpg
四候会議の四候
posted by 平野 浩 at 04:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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