ど、すべての面において長州藩に劣っており、いかに大軍をもっ
て立ち向かっても勝てるはずがなかったのです。
幕府軍の装備は、和製の火縄銃が中心であり、ゲベール銃はご
く一部であったのに対し、長州軍は農民兵まで新式のゲベール銃
で武装していたのです。
幕府は、まず「大島口」を攻撃し、あっという間に周防大島を
占領したのです。大島口の攻撃には、幕府陸軍と松山藩が担当し
たのです。宇和島藩は幕府の出兵命令を拒否し、参加していない
のです。幕府陸軍は、まだ不十分ながら、この戦争ではフランス
式の装備をした洋式歩兵隊で出撃したのです。
長州藩としては、兵力分散を避けるために最初から大島は重視
しておらず、大島守備兵は地元民で構成された少数の練度の低い
部隊が守っていたのです。しかし、占領した松山藩兵が住民に暴
行・略奪・虐殺の限りを尽くしたので、大島住民の敵意が高まり
大島奪還論が藩内で盛り上がったのです。
そこで小倉口を守っていた高杉晋作や芸州口の対処のため柳井
に駐留していた世良修蔵部隊が大島に救援に駆けつけたのです。
そして幕府海軍と高杉晋作が率いる艦隊が激突する海戦が展開さ
れたのです。しかし、高杉の夜間奇襲戦法の成功により、長州藩
は大島の奪還を果たしたのです。
芸州口では、長州藩と岩国藩の両藩と幕府歩兵隊と紀州藩兵の
戦いになったのです。芸州藩は幕府の出兵命令を拒んでいます。
しかし、長州側は井上聞多(馨)がしぶとく抵抗し、こう着状態
に陥ったのです。
石州口では長州側は大村益次郎が指揮し、中立的立場をとった
津和野藩内を通過して、徳川慶喜の実弟である松平武聰が藩主を
していた浜田藩に侵攻し、浜田城を陥落させたのです。
それでは小倉口はどうだったでしょうか。
小倉口では、大島口の応援から戻った高杉晋作が指揮をとり、
幕府への忠誠心が強い小倉藩との戦いが繰り広げられたのです。
途中、坂本龍馬が乗船するユニオン号(乙丑丸)も戦闘に加わり
最後は小倉城陥落で長州藩の勝利になったのです。
慶応2年7月20日、四境戦争の最中に徳川家茂が亡くなって
います。さすがの徳川慶喜も小倉城陥落の報に衝撃を受けて休戦
を決断し、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の御沙
汰書を発してもらったのです。この慶喜の意を受けた勝海舟と長
州の広沢真臣と井上馨が宮島で会見し、停戦が結ばれます。慶応
2年9月2日のことです。
慶応2年(1866年)12月5日、徳川慶喜は第15代将軍
に就任します。何よりも幕府軍を立て直す必要がある──慶喜は
親幕派のフランス公使レオン・ロッシュの意見を聞いています。
そして12月25日には孝明天皇が崩御。慶喜にとってさらなる
ショックが襲ったのです。佐幕派の孝明天皇の死は幕府勢力の巻
き返しを狙う慶喜にとって大きな痛手だったからです。
しかし、改革は急いで進める必要があると考えた慶喜は、勘定
奉行の小栗上野介に改革を担当させるのです。小栗上野介は幕吏
きっての英才といわれ、郡県制による徳川統一政権を目標として
洋式の武器や火薬、製鉄所の建設も進めてきたのです。
さらに慶喜は、旗本以下の家臣はすべて銃隊とし、洋服を正式
の軍服に改めているのです。そのうえで、フランスから軍事教官
として、シャノアン、ブリュネーを招き、横浜伝習所で3兵──
歩兵・騎兵・砲兵──の教育訓練を行い、積極的に軍隊の改革を
進めたのです。
しかし、軍制改革には莫大な資金がかかるのですが、これにつ
いては、小栗上野介がフランスの経済使節であるクーレーと協議
して、600万ドルの借款契約を結ぶことに成功したのです。
こうした軍制改革とあわせて、徳川慶喜は幕府機構の改革にも
着手しているのです。
当時「老中月番制」というものがあったのです。老中は複数が
任命されていたのですが、1人が月番として任に当たり、ほかの
老中は非番となったのです。それを慶喜は「五局五総裁制」に改
める改革をしているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
I── 国内事務局総裁─ 内務大臣
I 外国事務局総裁─ 外務大臣
首班(内閣総理大臣)I 会計局総裁─ 大蔵大臣
I 陸軍局総裁─ 陸軍大臣
I── 海軍局総裁─ 海軍大臣
―――――――――――――――――――――――――――――
この幕府機構は現在の体制に近いものになっています。この慶
喜の改革は、薩摩藩や長州藩、あるいは朝廷内の倒幕派には脅威
としてそれが映りはじめてきたのです。この慶喜の改革を評して
木戸孝允、岩倉具視、坂本龍馬は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
◎幕府の政治が一新し、兵馬の制も大変革した。一橋慶喜の胆
略はあなどれない。家康の再生を見るようだ。──木戸孝允
◎将軍の行動は果断、勇決、その志は小ではない。軽視すべか
らざる勁敵(強敵)だ。 ──岩倉具視
◎慶喜は近ごろ大奮闘している。油断がならない。─坂本龍馬
──山本 大著
『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
大河ドラマの徳川慶喜を見ていると、そこに閃きは感じられま
せんが、かつては島津斉彬たち開明派の大名たちが将軍に担ごう
とした英傑だけのことはあるのです。将軍に着任するや矢継ぎ早
に改革の実行をはじめたのです。元首相は大違いです。
この慶喜の改革を驚きを持って、強い警戒心を持って注視した
のは、薩摩藩と長州藩なのです。このままでは徳川の世に逆戻り
すると警戒したのです。 ―─ [新視点からの龍馬論/40]
≪画像および関連情報≫
●徳川慶喜という人
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幕末期にはあまたの魅力的な人物が出現しているが,徳川幕
府第15代将軍徳川(一橋)慶喜ほど評価の難しい人物はな
いであろう。英明なのか愚鈍なのか,一本気なのか優柔不断
なのか,見る視線によって評価が180度変わってしまうか
らである。徳川慶喜の大坂城脱出が戊辰戦争のターニングポ
イントだったというのは有力な説であろう。錦の御旗がひる
がえり,緒戦に敗れたとはいえ,この段階ではまだ旧幕府側
にも十分勝機があったはずだ。地上部隊の総合的な装備では
薩長側が勝っていたといっても,後に新政府軍の主力となる
肥前鍋島藩のアームストロング砲などの近代的火器はまだ登
場していないし,幕府にも最新装備の伝習隊がある。さらに
海軍力では圧倒的に幕府側が有利だった.
http://homepage3.nifty.com/mihara/yoshinobu.htm
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徳川 慶喜/第15代将軍
微笑んで近づくとき殺気を感じて、はっと我に返った。
「そんな筈はない」歳三は抜き打ちの姿勢で身構えた。
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