2010年11月30日

●「次々と不幸が襲う亀山社中」(EJ第2948号)

 「藤岡屋日記」という史料があります。古本業を営む藤岡屋由
蔵という人が、幕末のことを詳しく書き記している文書です。こ
れによると、近藤長次郎の自刃について、通説とは違う説が述べ
られているのです。
 藤岡屋日記によると、ユニオン号の購入価格は、3万7700
両ですが、2000両の未払い金があったというのです。どうし
て未払い金が生じたかについては資料がなく、わかっていないの
ですが、あったことは間違いがないようです。
 グラバー商会が亀山社中に支払いを求めたところ、社中側は既
に払っていると答えたというのです。責任者の近藤長次郎に聞い
たがはっきりせず、疑惑が高まったのです。それからもうひとつ
近藤はそのユニオン号(桜島丸)を下関に回航させ、それに長州
人を乗せて英国に密航しようとしていたというのです。
 どうして未払い金が生じたのかについて不明ですが、船に乗せ
ようとしていた長州人とは高杉晋作であり、これには伊藤博文と
井上馨が何らかのかたちでからんでいると、藤岡屋日記には書か
れているのです。
 もし、それが事実であるとしたら、薩長同盟には少なからず影
響することは確かです。近藤がそれを苦にして自刃した可能性が
高いのです。注目すべきは、龍馬の妻のお龍が、次のようにいっ
ていることです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 長次さん(近藤長次郎)は一人で罪を引き受けて死んだので、
 龍馬は俺がいたら殺しはしないのに残念だといっていました。
 あの伊藤俊助さん(伊藤博文)や井上聞多(井上馨)さんは社
 中の人ではありませんが、長次さんのことには関係があったよ
 うです。筑前の大藤太郎という人は伊藤さんや井上さんは薄情
 だとさかんにいっていました。──千里駒後日譚より、口語訳
―――――――――――――――――――――――――――――
 ユニオン号をめぐる長州藩とのトラブルが発生したことによっ
て、龍馬たち亀山社中には次々と不幸な出来事が降りかかってき
たのです。まず、ユニオン号を社中が使えなくなっただけでなく
それが原因で近藤長次郎を死なせる結果になってしまったことで
す。近藤は社中にとって貴重な人材だったからです。
 しかし、龍馬はめげなかったのです。龍馬は薩摩藩に7800
両の金を借り、ワイルウェフ号という帆船を長崎のグラバー商会
から購入したのです。ちょうどそのとき、ユニオン号(乙丑丸)
が薩摩兵の糧米を積んで長崎に寄港したのです。ユニオン号の行
き先はもちろん鹿児島です。
 ちょうど亀山社中も装備のため、ワイルウェフ号を鹿児島へ回
航するところだったので、ユニオン号にワイルウェフ号の曳航を
頼んだのです。そこで社中は、黒木小太郎を船長とし、士官池内
蔵太と浦田運次郎を含む水夫12人がワイルウェフ号に乗り込ん
で鹿児島に向かったのです。
 ところがユニオン号とワイルウェフ号が五島沖にさしかかった
とき、にわかに天候が崩れ、烈しい風雨と波浪に見舞われて、両
船とも衝突と沈没の危険にさらされたのです。このままでは両船
とも沈没すると判断したユニオン号の船長は両船を繋ぐ索縄を切
断したのです。
 索縄はワイルウェフ号の命綱です。たちまちワイルウェフ号は
激浪にもまれて転覆沈没し、黒木店長、池士官、水夫の9人が水
中の藻屑と消えたのです。このようにして、大変な借金をして手
に入れた亀山社中念願の帆船は、その最初の航海であっけなくそ
れを失ってしまったのです。
 龍馬にとっては、船を失ったことよりも、それに乗船していた
9人の貴重な人材を失ったことを嘆いたのです。中でも士官とし
て乗船していた池内蔵太は元土佐勤王党員であり、龍馬と同様に
土佐藩の保守的体質に失望して龍馬を追うようにして脱藩し、長
州藩に身を投じたのです。亀山社中のメンバーではないものの、
龍馬は池内蔵太をとても可愛がっており、メンバー同様の扱いを
していたのです。
 龍馬は、この池を失った心境を姉の乙女宛ての手紙で、次のよ
うに述べているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 可哀想なのは、地蔵太(池内蔵太のこと)。これまで九度、い
 つも指揮官として戦場に出て、一度も弾丸に当たらなかったの
 で、自分を幸運だといっていたのに、私たちが購入したワイル
 ウェフ号に一度乗ったところ、五島の近海で遭難して船が大破
 し、五月二日未明に死んでしまいました。人間の一生は、本当
 に夢のようなものだと思ってしまいました。杉山(池内蔵太の
 実家)へもこのことを話してください。彼が死んだ岡には印を
 付けています。              ──竹下倫一著
         『龍馬の金策日記』より/祥伝社新書038
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応2年(1866年)6月4日、龍馬は鹿児島に到着したユ
ニオン号(乙丑丸)にお龍と一緒に乗って長崎に行き、そこでお
龍を小曾根家に預かってもらい、社中の同志を連れて五島に渡り
塩谷岬の海浜にワイルウェフ号遭難者の慰霊碑を建立して、彼ら
の冥福を祈っています。
 そして、再びユニオン号に乗って下関に向かったのです。その
とき、第2次長州征伐は既に始まっていたのです。6月7日、幕
府の軍艦が周防の大島(屋代島)を砲撃したことから、両軍の間
に戦端が開かれ、翌日8日、幕府は長州征伐の勅定を諸軍に伝達
し、長州藩に正式に宣戦布告をしているのです。
 この第2次長州征伐で幕府軍は、次の4方面から長州を攻めて
いるので「四境戦争」といわれるのです。芸州口、石州口、小倉
口、大島口の4つです。
 幕府は大軍で長州藩を攻めたのですが、亀山社中によって十分
な武装をした長州藩は、第1次長州征伐のときと違って見違える
ほど強くなっていたのです。―─ [新視点からの龍馬論/39]


≪画像および関連情報≫
 ●四境戦争/幕府軍本当は5方面からの攻撃を予定
  ―――――――――――――――――――――――――――
  14代将軍徳川家茂は大阪城へ入り、再び長州征討を決定す
  る。四境戦争とも呼ばれている戦争であるが、幕府は当初5
  方面から長州へ攻め入る計画だった。しかし萩口を命じられ
  た薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長同盟で密か
  に長州と結びついており、出兵を拒否する。そのため萩口か
  ら長州を攻めることができず4方から攻めることになった。
  幕府は大目付永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定さ
  せ、老中小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行う
  が、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

四境戦争(第2次長州征伐).jpg
四境戦争(第2次長州征伐)
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(1) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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