2010年11月29日

●「近藤長次郎はなぜ自決したのか」(EJ第2947号)

 亀山社中というのは、日本で最初の商社といわれています。そ
の最も有名な取引は、第2次長州征伐の直前に行われたグラバー
商会から長州藩への武器の斡旋です。この取引は慶応元年暮れに
行われています。
 これについては、EJ第2937号で取り上げていますが、軍
艦ユニオン号と鉄砲7300挺の取引で、総額で13万100両
(約65億5000万円)に及ぶ巨額な取引なのです。
 しかし、既に述べたように亀山社中はこういう仲介行為で手数
料を取るのは、武士にあるまじき行為であるとして受け取ってい
ないのです。それでは何で儲けるのかというと、社中の狙いは船
なのです。何らかの方法で船を手に入れ、それを交易の手段とし
て使って儲けるというものです。
 当時西洋帆船なら1万両出せば手に入ったのです。したがって
20万両の取引で5%の手数料を取れば1万両になり、十分自前
の帆船が持てたのですが、亀山社中はそれをしなかったのです。
その代り、社中は長州藩とユニオン号との取引では、その船を平
時には使える条件を入れていたのです。
 300トンの蒸気船・軍艦ユニオン号の購入においては、薩摩
藩の名義で長州藩が買い、平時の運用は亀山社中が行うという取
り決め──「桜島丸条約」になっていたのです。これによって、
薩摩藩は長州藩に名義を貸すことによって恩を売り、長州藩は軍
艦を手に入れることができる。そして仲介した亀山社中は平時に
その船を交易のために使えるという三者三得になるはずだったの
ですが、そううまくはいかなかったのです。
 しかし、肝心の船が下関に回航される段階になって条約の内容
に関して長州藩から反対の声が上がったのです。その原因は条約
の内容に関して関係者の詰めが甘かったことです。
 長州藩としては、名義は薩摩藩でも実質は長州藩の船であり、
船名は「乙丑丸」、船長は中島四郎と決めていたのです。それに
平時に船は亀山社中が運用し、長州藩は使えない。しかも、社中
の仕事の大半は薩摩藩の仕事なのです。これではあまりにも長州
藩に不利であるというわけです。
 しかし、この仕事のために奔走した社中の近藤長次郎としては
「今さら何をいうか。それなら船を引き揚げる」といって一歩も
引かなかったのです。これに関して木戸孝允(桂小五郎)は龍馬
に次の手紙を送っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
(現代文訳)
 乙丑丸(ユニオン号)のことは小さいこと(現在の混迷状況に
 比べれば)といえども、あなたも御存知のように、毛利家(長
 州藩)の身にとっては非常に大変なことです。この件は、(長
 州藩の)海軍の興廃に関係することです。あなたは、全部事情
 を知っていらっしゃるのだから、わが藩の海軍も成り立つよう
 にしていただけるようくれぐれもお願いします。なにぶんにも
 小松大夫(薩摩藩家老小松帯刀)がこれを承知していただけな
 いことは、非常に困っています。      ──竹下倫一著
         『龍馬の金策日記』より/祥伝社新書038
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのとき京都にいた龍馬はこの手紙を読んで、この問題がこじ
れると現在進めている薩長同盟が瓦解しかねないと危機感を持っ
たのです。そこで龍馬は近藤を説得して、条約内容を長州藩の権
限を強化する内容に改め、この取引は成立したのです。慶応元年
(1865年)12月29日のことです。しかし、これによって
亀山社中には使える船がなくなったのです。
 また、これが結果として近藤長次郎が自決する原因になってし
まったのです。近藤といえば、龍馬の片腕であり、社中の運営は
事実上近藤に委ねられていたのです。近藤の自決の原因は、社中
の同志に内緒で、長州藩から資金援助を受け、英国に密航を企て
て発覚し、仲間に問い詰められて切腹──これが通説になってお
り、大河ドラマでもその通説にしたがって描かれています。しか
し、これは事実とは思えないのです。
 長州藩は、ユニオン号の問題が近藤の意に沿わないかたちで決
着したことを心苦しく感じていたのです。それは、近藤がいなけ
ればこの船は手に入らなかったからです。そのぐらい近藤はよく
やってくれたと長州藩は内々感謝していたのです。そのため、近
藤に対して相当の謝礼金を積んだと思われるのです。
 通説では、近藤はこの謝礼金のことを仲間に隠し、グラバーに
その金で英国への密航を依頼しているのです。しかし、慶応2年
(1866年)1月、近藤はグラバーの汽船に乗船したのですが
天候が悪く出航は翌日に延期され、近藤は船を下りたのです。と
ころが、その晩に密航が社中の仲間に発覚し、社中の別邸になっ
ていた小曾根家に連行されたのです。そして問い詰められ、1月
23日に小曾根邸の庭先で切腹して果てたのです。
 この通説が正しくないと思う根拠は多くあります。まず、亀山
社中の規律はそれほど厳格なものではなかったということです。
少し問題なことが起こっても、それまでは必ずしも厳格に対処し
てきていないからです。
 それに社中の人間が外国に密航することは、それほど珍しいこ
とではなかったのです。近藤の場合、社中の仕事を仕切っていて
忙しいため、密航できないでいたので、社中の仲間は近藤に対し
外国に行くことをむしろ勧めていたほどなのです。
 それに何よりもおかしいのは、切腹が龍馬のいないときに行わ
れたことです。たとえ仲間が切腹に値すると決めても、龍馬の来
るまでなぜ待てなかったのか、それほど緊急性があったとは思え
ないことです。
 もうひとつ、近藤に対して、長州藩がなにがしかの金を支払う
べきであるということを述べた証拠の文書(関連情報参照)はあ
るのですが、その金を近藤が授受したという証拠は何もないので
す。そういうわけで、この通説は信憑性が薄いということになり
ます。          ―─ [新視点からの龍馬論/38]


≪画像および関連情報≫
 ●伊藤博文から木戸孝允への書状
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (現代文訳)薩摩藩の長崎役人はかなり無茶なことをいって
  おり、上杉(近藤のこと)は非常に苦心して事にあたってく
  れています。彼はイギリスに行く志があったのですが、我が
  藩のために予定が3ヵ月も遅延していますので、藩政府から
  必ずお礼をしてください。金なれば、100金なり200金
  くらいは、進呈してやってもいいのじゃないかと思います。
                      ──竹下倫一著
         『龍馬の金策日記』より/祥伝社新書038
  ―――――――――――――――――――――――――――

近藤長次郎.jpg
近藤 長次郎
posted by 平野 浩 at 04:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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