下関の砲台をことごとく吹き飛ばし、1500名の海兵隊と工作
隊が下関に上陸し、戦闘はたったの2日間で終わったのです。
一体この戦争は何だったのでしょうか。
ここで再び英国の次の3つの立場に伊藤博文と井上馨の立場を
加えて、何が起こったのかを整理しておきます。
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1. グラバー
2. 英国本国 ・・・・ ラッセル外相
3.英国領事館 ・・・・ オールコック公使
4.伊藤・井上
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この馬関戦争の起きる直前の長州藩には尊皇攘夷派が強い力を
持っていたのです。したがって、それを4ヶ国の連合艦隊の力を
借りて打撃を与えることは、長州ファイブを中心とする開国派の
長州藩士にとっては歓迎すべきことであったのです。
これには、雄藩の連合による倒幕しか解決の道はないことを早
くから見抜き、長州藩や薩摩藩、それに龍馬を中心とする土佐藩
の脱藩浪人を手厚く支援してきたトーマス・グラバーも長州攻撃
には賛成だったのです。
それに現場を指揮するキューパー提督は実際に長州から砲撃や
海上封鎖を受けているだけに攻撃派の急先鋒であり、その上司の
オールコック大使も長州は一度叩いておく必要があると考えてい
たのです。しかし、英国本国、なかんずくラッセル外相は人道主
義者であり、そういう武力行使は望んでいなかったのです。あく
まで日本の内政には干渉せず、平和裡に自由渡航、自由貿易を勝
ち取るべきであるという考え方であったのです。
こういう複雑な状況を解決するスキームを案出したのは、グラ
バーだったのです。彼は留学中の伊藤博文と井上馨を日本に帰国
させ、英国の諜報部員として仕事をさせたのです。
まず、4ヶ国の覚書きを伊藤と井上に持たせてかたちばかりの
藩主説得を行わせています。これは最初から成功しないことを見
越しての交渉です。しかし、2人の説得の間、連合艦隊はいった
ん引き下がり、再び下関に投錨するまで1ヵ月もの時間をかけて
いるのです。
その間、伊藤と井上が何をしていたかについては、はっきりし
ていない。おそらく攻撃ありきの前提に立って開国派を温存する
工作を行っていたと考えられます。そのための1ヵ月間であると
考えられるのです。
このようにして、英国本国に向けてのメッセージとして、長州
藩に対して、あくまで誠心誠意、平和を求める交渉を2人の長州
藩士を使って行っているが、それでも相手は聞き入れなかったと
いう既成事実を積み重ねたのです。
ところが最後の土壇場になって、長州藩は全面降伏という書状
を届けてきたのです。しかし、これはアーネスト・サトウの段階
で握りつぶされ、砲撃が始まったのです。そして2日間で長州藩
は降伏したのです。
戦闘が終了した9月8日、伊藤博文と井上馨、そしてもう一人
の武士がユーリアス号にやってきたのです。和平交渉をするため
です。もう一人の武士とは長州藩家老の「宍戸刑馬」と名乗った
のです。つまり、長州藩の全権大使の家老、宍戸刑馬が伊藤と井
上という通訳を従えて船に乗り込んできたのです。
しかし、サトウは首を傾げたのです。彼が入手している長州藩
の幹部の名簿には宍戸刑馬という名前はなかったからです。諜報
部員のサトウは、そういう名簿を手に入れていたのです。
それもそのはずで、「宍戸刑馬」は高杉晋作の偽名であったか
らです。高杉はこのほか、谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、
三谷和助、祝部太郎などの偽名を使っています。
なぜ、高杉晋作なのでしょうか。それは高杉が伊藤たちと思想
が同じ同志であることと、家柄の関係があるからです。伊藤と井
上はいわゆる下級武士であったのに対し、高杉は長州藩士・高杉
小忠太(大組・200石)という上級武士の長男として生まれて
おり、全権大使になれたのです。しかし、名前は偽名でもちゃん
と長州藩主の公認した大使だったのです。
和平交渉は簡単ではなかったのですが、約1ヵ月かけて何とか
交渉は成立したのです。しかし、その結果、長州藩の尊攘派から
は、彼ら3人は英国の手先として、命を狙われることになるので
す。そのため、高杉、伊藤、井上は潜伏場所を転々とし、井上に
至っては襲われて瀕死の重傷を負っています。
しかし、藩にとって伊藤博文たちは、今や重要な英国担当窓口で
あり、重要な任務を担わせざるを得なかったのです。そしてその
年(元治元年12月)の15日、高杉晋作が功山寺で決起したと
きに伊藤博文は駈けつけているのです。実際問題として、4ヶ国
連合艦隊の長州攻撃による尊攘派潰しがなかったら、高杉晋作の
クーデターは成功していなかったと思われます。
以上は、既出の加治将一氏による英国サイドの視点に立った馬
関戦争の顛末をご紹介したものです。一般にいわれているものに
比べると、はるかに説得力があると思います。いずれにせよ、こ
のようにして、トーマス・グラバーによる下関紛争解決スキーム
──長州藩は潰さず、倒幕派に組み込む──は成功したのです。
薩英戦争と馬関戦争──これは外国軍隊の力を借りての藩内の
尊攘派潰しの工作としてとらえると、わかりやすいと思います。
このようにしてグラバーは開国派の力を強くしていったのです。
後日譚ですが、突然オールコック公使に帰国命令が出されたの
です。あれほど、慎重に進めたはずの下関攻撃だったのに、いた
く英国本国──ラッセル外相を刺激してしまったのです。つまり
彼は事実上解任されたのです。
それにしてもグラバーとは何者でしょうか。彼の本当の狙いは
何なのでしょうか。これについては来週以降少しずつ明らかにし
ていくつもりです。 ―─ [新視点からの龍馬論/37]
≪画像および関連情報≫
●下関戦争(馬関戦争)について
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長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通航不能となって
いた。これは日本と貿易を行う諸外国にとって非常な不都合
を生じていた。アジアにおいて最も有力な戦力を有するのは
イギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げて
おり、海峡封鎖でもイギリス船が直接被害を受けていないこ
ともあって、本国では多額の戦費のかかる武力行使には消極
的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。だ
が、駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖に
よって、横浜に次いで重要な長崎での貿易が麻痺状態になっ
ていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続して
いることにより幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持
っていた。元治元年(1864年)2月に幕府は横浜鎖港を
諸外国に持ち出してきていた。 ──ウィキペディア
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4ヶ国連合軍による下関攻撃の図
消去法は、無哲学・能天気の人に見られる。不満はあっても、主張はない。
結局、不満の主張ということになるのか。
否定文だらけで不毛の内容となる。無為無策でいる。
自分の意見は、自分の哲学で話そう。上手い話を現実の中で辻褄を合わせることが出来れば、建設的な内容となる。
我々は、無いものねだりはできない。
つたない政治家であっても、捨てるわけには行かない。
我々は、助け合って、現実対応して行かねばならない。
指導者は、遠い未来に我々の行き着き先の内容を明らかにする必要がある。
そうすれば、自己の協力者を得ることが可能になる。
だが、未来時制のない日本語を使用していては、それも難しいことなのであろう。
日本語脳の持ち主は、未来の内容を受け入れることが難しい。
激しく離散集合を繰り返しながら、現実の世界を迷走する。
この国の意見発表がまともにならなければ、この国の政治音痴も解消しない。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
井上は小姓を務めるほどの名門の出です。
確か、井上の家格は高杉と同格ですが、
井上の生まれは宍道家で高杉よりも
上の家格だったと思います。
高杉家は大組、馬廻格200石。
宍道家は寄組、250石。
井上家は大組、100石。