のでしょうか。その狙いは何だったのでしょうか。
長州藩が英国公使館を焼き打ちすれば当然英国は激怒します。
ましてその直後に長州藩は攘夷を実行するため、英国船を含む外
国艦船に砲撃を加えているのです。
本来であれば、英国艦隊は本気になって長州藩を攻撃するはず
です。そうすると、藩内の攘夷派は壊滅の危機に陥ることになり
ます。実際に強硬派の英国の二―ル代理大使は、長州藩に対する
懲罰的攻撃を本国に具申しているのです。
といっても英国はとことん長州藩を潰すつもりはないのです。
攘夷派の力が弱まり、開国派の力が強くなった長州藩は、英国に
とって──というより、グラバーにとってかもしれない──重要
な顧客になるからです。
グラバーや英国公使のオールコックは、その時点で、既に幕府
に見切りをつけており、薩摩や長州などの雄藩が一体となって、
幕府を倒すしかないと考えていたのです。そうして自由貿易がで
きるようにすることを目指そうとしたのです。
伊藤博文ら5人──長州ファイブは6月にロンドンに留学して
います。この5人の中には、英国公使館の焼き討ちに参加した伊
藤博文と井上馨が含まれているのです。確かに長州藩は藩士の留
学(密航)に寛容な藩だったのですが、この時期に5人もの藩士
の留学を許すとは考えられないのです。
もともとこの留学の最初のメンバーは、山尾康三、井上馨、井
上勝の3人であり、これは藩としては許可していたものと思われ
るのです。しかし、この話を井上馨から聞いた伊藤博文が遠藤謹
助と一緒に強引に割り込んだというのが真相のようです。つまり
留学追加嘆願書を藩に出したものと思われるのです。
しかし、この時期長州藩は、尊皇攘夷派を中心にして外国艦隊
の砲撃や幕府の第1次長州征伐に対抗する準備にすったもんだし
ており、5人もの留学をそのまま許可するはずはないのです。こ
れについて、既出の加治将一氏は次のように述べています。
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だいたい藩はそんな情況にはない。擾夷を朝廷に誓い、その決
行目前にして藩全体がいきり立っている時期である。なにを好
きこのんで留学など許可するだろうか。下っ端の俄か侍が正面
から密留学を願い出たとしたら、おそらく藩主の目に触れる前
に、唐竹割りに切り裂かれるのがおちである。
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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しかし、彼ら5人は文久3年6月にロンドンに出発しているの
です。そしてその翌年の元治元年7月13日、伊藤博文と井上馨
の2人は他の3人を残してあわてて帰国しているのです。
この2人の帰国について、11月4日のEJ第2931号では
米英仏蘭4ヶ国連合軍との休戦協定を結ぶため、長州藩が呼び戻
したと書きましたが、それが通説になっているからです。
しかし、本当のところはよくわからないのです。2人が自らの
意思で戻ったという説もあります。実際に井上馨は次のように述
べているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
我々が外国へ来て、海軍の学術を研究しても、自分の国が滅び
たらどこでその海軍の学術を応用できようか。この際帰国して
政府の役人らにも会い、攘夷の方針を転じて尊王開国の方針を
とらせようではないかというと、伊藤も同意したので、あとの
三人を残して伊藤と私が帰ることになった。
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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しかし、加治将一氏によると、これも違うというのです。伊藤
と井上は帰国させられたのです。といっても長州藩によってでは
ないのです。絶対に反対のできない筋からの帰国命令だったので
す。加治氏は「この期に及んで、じたばたなどとてもできない圧
倒的力」と書いています。
それは誰のことでしょうか。
トーマス・グラバーその人です。そもそも5人の密航にしても
すべてはグラバーの計らいで実現しているのです。当時英国公使
館推薦の商社は、ジャーディン・マセソン商会であり、公式の留
学費用は、一人につき1000両というのです。今の金額にして
約5000万円です。これはベラボーな金額であり、藩から正式
に出るお金は約200両(約1000万円)程度なのです。その
5倍の費用を藩が出せたとは思えないのです。
グラバーはそういう留学費用を負担していたようなのです。グ
ラバーの立場から見ると、留学費用などは、もしその見返りに長
州藩に船を一隻購入してもらうだけで十分見合うというのです。
実際に伊藤や井上などの開国派が主導して長州藩は、1862年
10月にランスフィールド号をジャーディン・マセソン商会から
購入しています。もちろんこれにもグラバーが深く関与している
のです。
グラバーとしては、一年前の薩英戦争の処理──五代と寺島の
やったことと同じことを伊藤と井上をわざわざロンドンから呼び
戻し、下関の紛争処理をやらせようとしたのです。つまり、あく
まで英国のシナリオに沿って解決に動くのです。
英国の場合、次の3つの立場はそれぞれ違うのです。1つはグ
ラバーの立場です。これはあくまで薩長連合を軸とする倒幕路線
であり、一貫してその立場で動いています。
2つは、英国本国の立場です。英国本国が求めているのは、自
由貿易と自由渡航であり、日本の内政には一切干渉しないという
スタンスです。
3つは、英国領事館の立場です。具体的にはオールコック公使
のスタンスです。彼は、いずれにせよ、長州は一度叩く必要があ
ると考えていたのです。これら三者が納得する解決策を模索する
必要があるのです。 ―─ [新視点からの龍馬論/35]
≪画像および関連情報≫
●伊藤博文と井上馨の逸話
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大隈重信は伊藤と井上の二人を次のように評している。「伊
藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を
立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、
道具立ては面倒であった・・井上は道具立ては喧しくない。
また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は
出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石
火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。
ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏
は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽく
ない。伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促され
てすると云うほうだったから、敵に対しても味方に対しても
態度の鮮明ならぬ事もあった。 ──ウィキペディア
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伊藤 博文/井上 馨