て述べる必要があります。
「飛耳長目」(ひじちょうもく)という言葉があります。松下
村塾の塾長、吉田松陰が好んで使った言葉です。飛耳長目は直訳
すれば「耳をそばだてて良く聞きなさい。目をしっかり開いてよ
く見なさい。世の中の出来事に常に敏感であれ!」ということで
す。これはそのまま松陰の「情報こそ命」という考え方につなが
り、塾員たちの心に深く根ざした教えです。
松下村塾は、今でいう小学校、読み書きそろばんを教えたので
すが、吉田松陰はそれと同時に次のことを強調したのです。
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日々起こっている時事問題をテキストにしなさい。なぜこんな
ことが起こるのか。起こることが国のため、国民のために良い
ことか、悪いことか?問題点があるとすればどうしたら解決で
きるか。そして良くするためにどうすれば良いかをみんなと考
えなさい。そして解決のため実行しなさい。
http://www.geocities.jp/ennohana/nandetibatu/tibatu17.htm
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長州藩においてこの「飛耳長目」──諜報活動の役割を与えら
れたのが次の6人なのです。すべて松下村塾の塾員です。
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久坂 玄瑞 桂小五郎
高杉 晋作 山形有朋
品川弥太郎 伊藤博文
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安政5年(1858年)7月26日、長州藩はこの6人に「飛
耳長目」の命を与え、京都に潜入させたのです。これらの6人は
いずれも一応は武士ですが、桂小五郎以外は武士としての格は低
いのです。これは他の藩──例えば土佐藩でも龍馬をはじめ、活
躍しているのはいずれも下士なのです。
次のTVドラマの有名なセリフを覚えているでしょうか。
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おはよう。〇〇君。・・・そこで今回の君の任務だが、・・・
である。例によって、君、もしくは君のメンバーが捕えられ、
あるいは殺されても当局はいっさい関与しないからからそのつ
もりで。成功を祈る。録音部分は5秒以内に消滅する。
──スパイ大作戦の指令テープ
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当時の藩の首脳から見ると、下級武士は使いやすい存在だった
のです。捨て駒として使い捨てができるからです。それに当の本
人にとっても自分がやりたかったことができるので、前向きに藩
の命令を受け入れたのです。
長州藩は、伊藤博文のリーダーとしてふさわしい資質を見抜い
ており、彼にその任務を与えています。そして、吉田松陰は6人
に対して次のような激励を与えています。
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行け6人、まさに飛耳長目が、長州藩から命じられた君たちへ
の任務だ。君たちそれぞれが、その耳を飛ばし、その目を長く
し、ことの軽重にかかわらず、意気盛んにして、情報を集め、
報告するのだ。今こそ、皆の実力がどんなものであるか、藩に
示すときだ。 ──『六人の者を送る序』
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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実は伊藤博文にはいろいろな謎の部分があるのです。伊藤博文
は、栗原良蔵の手付けとして長崎などに出かけていますが、この
栗原の義兄が桂小五郎(木戸孝允)なのです。そういう縁があっ
て桂は伊藤を栗原の手付けにしたのです。「手付け」というのは
秘書のようなものと考えればよいでしょう。
伊藤博文は桂小五郎より8歳年下であり、小五郎の指令を受け
て江戸や京都でいろいろな活動をしているのです。ところが伊藤
博文は高杉晋作、井上馨らと共に奇妙な行動に出ているのです。
それは、文久3年(1863年)1月31日に攘夷血盟団に参加
し、御殿山英国公使館に火を放っていることです。
これは実に奇妙な話です。伊藤の兄貴格の桂は開国派であり、
その指導的地位にいて、薩摩藩の五代などとも密かな付き合いが
あるのです。したがって、その部下の伊藤も間違いなく開国派な
のです。その伊藤が英国公使館を襲撃するはずがないのですが、
実際にやっているのです。
伊藤博文は、農民の子として生まれ、14歳のとき伊藤家の養
子となって「軽率」という身分になるのです。軽率というのは足
軽の身分であり、農民ではないが、武士でもないという中途半端
な身分なのです。
その伊藤は、英国公使館襲撃事件の後、藩から「士雇(さむら
いやとい)」という身分が与えられ、武士の身分に引き立てられ
ているのです。明確な証拠はないのですが、その背景には匂うも
のがある──このように加治将一氏は述べています。
さらに奇妙なことは、伊藤はその4ヵ月後の文久3年6月27
日に敵国英国に密航しているのです。長州藩が藩を上げて攘夷を
実行に移そうとしている時期に、その敵国である英国に密航して
いるのです。これは明らかに奇妙なことです。
なお、御殿山の英国公使館襲撃には、高杉晋作も襲撃者の一人
として参加しています。しかし、高杉の場合は本気で攘夷に参加
しているのです。加治将一氏によると、伊藤は高杉を開国派に取
り込むため、桂の指示を受けて高杉と一緒になって行動を共にし
たのではないかというのです。
長州藩はその時点では、尊皇攘夷派が強い力を持っていたので
す。桂と伊藤はそういう状況を変えるため、高等戦術を仕掛けた
と思われるのです。つまり、尊皇攘夷派優位の状況を尊皇開国派
優位のそれに変革させる戦略です。これについては、次のEJで
述べます。 ―─ [新視点からの龍馬論/34]
≪画像および関連情報≫
●長州藩による御殿山英国公使館襲撃事件の真実
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最初の襲撃目標は横浜のアメリカ公使であった。京より戻っ
てきたばかりの玄瑞はこの計画を無謀とし、晋作と激論を交
わす中、晋作は激興し、太刀に手を掛けようとした。その時
襲撃費用の調達に掻け回っていた志道聞多が帰ってきた。こ
の言い争いを見た聞多は「わしが血のにじむ思いで百両作っ
てきたというに、酒をくろうて言い争いなんぞしおって」と
手当たり次第に徳利、杯、皿を投げつけ大暴れした。これに
は玄瑞、晋作も聞多をとりおさえることとなり、一件落着の
形となった。(中略)結局、当初の目標のアメリカ公使襲撃
は事前に計画が漏れ、次の目標を品川御殿山の英国公使館に
定めた。彼らは焼玉を使って、幕府が八万両の巨費を投じた
建築物を一夜にして灰にしてしまった。この建物は引渡し前
で直接、英国に被害を与えたわけでは無いが、長州尊攘派に
よる攘夷活動の火蓋を切った事件であった。
──久坂玄瑞より
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江戸時代の御殿山での花見風景