2010年11月19日

●「メーソンだけに通じる合図がある」(EJ第2942号)

 英国の艦隊が薩摩の商船を拿捕する計画は、グラバー、五代友
厚、寺島宗則の3人が練ったものと思われます。問題はそれをど
のようにして鹿児島湾に入っている英国艦隊の旗艦ユーリアラス
号に伝えたのでしょうか。
 これには何も残されたものはなく、推定するしかないのですが
夜陰に紛れて五代と寺島は小舟でユーリアラス号に近づき、乗り
込んだものと思われます。しかし、問題は、乗り込んで話ができ
たとしても、それを英国側が信用するでしょうか。おそらく罠だ
と思うことでしょう。
 これに関して、加治将一氏は、次のように興味深いことを述べ
ています。フリーメーソンのメンバー同志には相手にそれと知ら
せる合図があるというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もっと円滑にいく方法がある。これはあくまでもうっすらと浮
 かぶ可能性だが、フリーメーソンの秘密の握手だ。五代たちが
 この謎の握手と暗号を知っていたなら、瞬時に英国側の疑惑は
 溶ける。さらにフリーメーソンには、救いを求める重要なサイ
 ンが存在する。自分に危機が迫ったときだけ発することが許さ
 れるサインだ。彼らにはそのサインを確認した場合、たとえ敵
 であろうとも、救助を最優先させなければならないという厳重
 な掟がある。アメリカ独立戦争、フランス革命、アメリカ南北
 戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、多くの戦場で敵味方
 の区別なく、活躍したサインだ。捕虜はそれによって待遇がよ
 くなった、という話はたくさん伝えられている「切り札」であ
 る。   ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 二―ル代理大使やユーリアラス号のキューパー提督がフリーメ
ーソンであったことを示す証拠はないが、当時英国でこのクラス
の地位にある人のほとんどはフリーメーソンだったのです。日本
にやってきた英国の軍人の多くがフリーメーソンだったことは、
横浜、長崎にある外人墓地に並ぶ墓石を見れば明らかです。そこ
には、フリーメーソンの独特のマークの入った墓石を多く見るこ
とができるからです。
 五代たちの計画は成功したように見えたのですが、結局戦争を
回避することはできなかったのです。薩摩藩の商船3隻を拿捕し
た後も英国艦隊は鹿児島湾にとどまっていたのです。商船という
担保を取っているので、薩摩藩の方から何らかの話し合いがある
と考えていたのです。
 文久3年(1863年)8月15日の正午に薩摩藩は砲撃を開
始したのです。それもかなり正確であり、あちこちに水柱が立っ
たのです。こうなると、拿捕した商船は邪魔になります。そこで
提督は直ちに船の焼き討ちを命じ、反撃に転じたのです。
 こうなると、英国艦隊の攻撃はすさまじかったのです。そもそ
も薩摩藩の大砲と英国艦隊のそれとは射程距離が違うのです。薩
摩藩の大砲は約1400メートルであるのに対し、英国艦隊のそ
れはその4倍であり、比較にならないのです。
 さらに砲弾も違うのです。薩摩藩のは単なる鉄の球であるが、
英国艦隊のそれは炸裂弾を使用しており、その違いは途方もなく
大きかったのです。
 そのうえ英国艦隊の攻撃は、ますます正確さを増し、帆船、工
場、火薬庫が次々と狙い撃ちされたのです。その正確さに薩摩藩
側では五代と寺島が目標の情報を与えているという噂が広がり始
めたのです。そして、ほぼ1時間ほどで、薩摩藩側は何もできな
くなってしまったのです。
 結局英国艦隊は、8月22日から23日にかけて、さみだれ式
に横浜に帰還しています。横浜で発行されている英字新聞の「ザ
・ジャパン・ヘラルド」では、薩英戦争を取り上げており、それ
は英国に伝わったのです。
 しかし、英国の新聞論調は攻撃を仕掛けた英国艦艇に対する批
判だったのです。攻撃による鹿児島の大火について触れ、非武装
の多くの民家を焼いたことは許されるべきことではないと一斉に
非難したというのです。
 時の英国首相のパーマストンは、二―ル代理大使やキューパー
提督のとった行為を必死に弁護したのですが、英国の貿易拡大と
いう私利私欲のための戦争ではなかったのかとし、二―ル代理大
使はもとより、ラッセル外相の責任問題を追及する声は小さくな
らなかったのです。
 結局英国政府は、鹿児島の街を焼いたことに対して遺憾の意を
表明し、キューパー提督に個人的な責任を負わせて幕引きを図り
薩英戦争は双方にとって痛み分けの結果に終わったのです。しか
し、日本としては改めて外国との戦力の格差を見せつけられ、攘
夷がいかに無謀であるかを悟る結果となったのです。
 しかし、このようにして薩英戦争に深くかかわった五代と寺島
は、薩摩の恥、裏切り者とされ、天誅を口にした刺客が放たれる
ことになるのです。
 そのようにして五代たちを襲ってくる刺客に対しても、けっし
て排除せず、話す可能性があればクッキーと紅茶を振る舞い、次
のように話して説得したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私も、ついこの間まではあなたと同じ攘夷だった。気持ちは分
 かる。しかし、いくら戦っても、文明にはかなわない。示現流
 だろうが、北辰一刀流だろうが、鏡心明智流だろうが、なさけ
 ないことに百姓の持つ鉄砲にすら歯が立たない。無駄死にする
 だけです。それより、イギリスの技術を学ぶことが先決ではな
 いですか。──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 五代はこのようにして刺客として襲ってくる薩摩藩士に対して
説得を続けたのです。そういう五代や寺島をサポートしたのは、
薩摩藩家老の小松帯刀です。小松は若いが、進取の精神に富んだ
男だったのです。     ―─ [新視点からの龍馬論/33]


≪画像および関連情報≫
 ●フリーメーソンのマークについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フリーメイソンのシンボルマークの一つ。コンパスと定規が
  かつてこの組織が石工職人のギルドであったことを物語る。
  上向き三角形(コンパス)と下向き三角形(直角定規)の結
  合はダビデの星を形成し、男と女、陽と陰、天と地、精神と
  物質など世界の二元性の融和を表現している。中央の「G」
  は至高存在を意味し、神と幾何学を意味する。フリーメイソ
  ンにおいて個々の建築道具は人間の美徳と対応し、コンパス
  は真理、直角定規は道徳、こては結束と友愛、槌は知識や知
  恵を象徴している。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●墓石のフリーメーソンマーク出典/加治将一著、『あやつら
  れた龍馬』/祥伝社刊

フリーメーソンマーク.jpg
フリーメーソンマーク
posted by 平野 浩 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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