戦争について述べる必要があります。薩英戦争はなぜ起こったの
でしょうか。それは後の時代にどのような影響を与えたのでしょ
うか。これについて、歴史の通説とは視点を変えて分析していく
ことにします。
生麦事件(文久2年8月21日)が起こって一年が経過しよう
としているのに、謝罪や賠償を求める英国に対し、薩摩藩はのら
りくらりと回答を引き延ばし、逃げ回っていたのです。生麦事件
というのは、時の薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬
の英国人を、供回りの藩士が殺傷した事件のことです。
薩摩藩のこの態度に業を煮やした英国側は、7隻の軍艦で日本
列島を南下し、鹿児島沖に向かっていたのです。しかし、英国は
戦争をする気などはなく、あくまで示威行為としてそれを行った
のです。その証拠に旗艦ユーリアラス号には英国公使館員全員を
乗船させていたのです。平和交渉に備えるためです。
それどころではない。英国側は幕府に対してオブザーバーとし
て乗船して欲しいと要請していたのです。これは戦争なんかしま
せんよというサインです。それに英国は幕府から生麦事件に対す
る日本国としての謝罪として、賠償金11万ポンドを受け取り、
旗艦に積んでいたのです。もし、戦争ということになれば、こう
いう現金は邪魔以外の何ものでもなく、船が沈めばパーになって
しまうので、この点から考えても戦争は想定していなかったと思
われます。しかし、幕府は乗船することは断っています。幕府と
しては、このさい英国が薩摩に対して大きな打撃を与えてくれれ
ば内心ありがたいと思っていたに違いないのです。しかし、英国
のこの思惑は外れるのです。
やがて、7隻の英国艦は鹿児島湾に入り、停泊したのですが、
薩摩は英国の要求を拒絶したのです。そこで、英国は薩摩藩はコ
トの深刻さがわかっていないと判断し、薩摩船を拿捕することを
決め、それを実行に移したのです。
その結果、街の北方15キロ付近に停泊させてあった商船、青
応丸、白鳳丸、天佑丸の3隻が英国側に拿捕されたのです。その
さい乗員はすべて下船させられたのですが、次の2名だけが捕虜
になったのです。
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1.五代友厚
2.寺島宗則
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加治将一氏によれば、英国の軍艦が鹿児島に向けて出発しよう
としていたときに、五代友厚と寺島宗則はグラバー邸にいたので
す。その目的は、英国の情報を探りに来たのです。
こういうグラバーの態度に対して「利敵行為」だと非難する英
国の外交官もいたのです。モリソン外交官です。しかし、英国政
府は、ことグラバーの行動に関しては、比較的寛容であり、問題
にしていないのです。それは、グラバーにもうひとつ大きな役割
が与えられていたと考えることができます。
そのとき、グラバー邸には、横浜から長崎に立ち寄ったばかり
の英国人の軍医のレニーがいて、グラバーはレニーに対して「五
代と寺島に知恵を貸してやって欲しい」と頼んでいるのです。
そこで五代はレニーに対して、長崎薩摩藩邸に詰めている簑島
伝兵衛に会って欲しいと要請したのです。なぜ、簑島伝兵衛なの
でしょうか。簑島とは何者でしょうか。
簑島伝兵衛は島津久光の側近であり、その簑島に対して英国人
の口から話をしてもらえば、戦争することがいかに無謀であるか
がわかるのではないかというアイデアです。レニーはそれを承諾
し、やってくれたのですが、果たしてそれがどれほどの効き目が
あったかはわかっていないのです。
その後3日間、グラバー、五代、寺島はグラバー邸にいて、何
かを打ち合わせているのです。そして、8月10日に五代は寺島
と一緒に薩摩に戻っています。
その五代と寺島が鹿児島に着いたのは8月11日であり、英国
の軍艦が鹿児島湾に入ったのも11日なのです。五代たちは藩に
対して報告書を提出して、暗に「賠償金は支払った方がよい」と
進言したのですが、藩は聞き入れなかったのです。
そこで、五代たちは、それなら英国の攻撃は避けられないので
船を移動させて隠したいと申し出て許されています。そして五代
たちは、3隻の商船を街の中心部から約15キロ北の重富脇元浦
の入り江の入口に隠したのです。
しかし、この3隻は英国艦に簡単に発見されているのです。英
国艦がどのようにして3隻の商船を発見し、拿捕したかという記
述は一切残っていないのです。英国艦による薩摩藩の商船3隻の
拿捕には次の3つの不審点があります。
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1.拿捕されるとき乗員(武士)が誰も怪我をしていない
2.船の価格は約30万ドルであり、十分賠償金に値する
3.なぜ、捕虜になったのは英国に近い五代と寺島なのか
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拿捕するさいに、乗り込んでいた乗員である武士が何も抵抗し
なかったとは考えられないことです。彼らの中からは死者はおろ
か怪我人も出ていないのです。当時薩摩藩全体が英国との戦いに
備えて燃えており、抵抗しないとは考えられないことです。
それに英国が薩摩藩に支払いを求めていた賠償金は10万ドル
であり、商船の価値はその3倍であって、賠償金に十分過ぎるほ
ど見合うのです。賠償金を払うのは面子が許さないが、奪われた
のなら面子は保てる──そういう考え方もあるのではないか。
五代友厚は薩摩藩の御船奉行副役、寺島宗則は英国帰りであり
いずれもグラバーときわめて親しい存在です。その2人だけが捕
虜になるというのは、あまりにも話ができ過ぎているのではない
かというわけです。グルではないかと疑いです。
―─ [新視点からの龍馬論/32]
≪画像および関連情報≫
●薩英戦争について
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文久3年5月、幕府から生麦事件の賠償金を受け取ったイギ
リス代理行使ジョン・ニールは、さらに薩摩藩と直接交渉す
るために、同年6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊
7隻(旗艦ユーリアラス号2371t)に同行して鹿児島湾
に遠征しました。薩摩藩に犯人の逮捕処罰と被害者、遺族へ
の賠償金2万5000ポンドを要求しましたが、薩摩側は拒
否。交渉は不調に終わります。ニールは強硬手段を行使し、
7月2日イギリスは薩摩の汽船3隻の拿捕を手始めとし、薩
英の間で砲戦が開始されました。
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu05.htm
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薩英戦争の図
『薩藩海軍史(中巻):・・・天佑丸にては、乗組員中に抵抗する者もありたるに依り之を捕縛し、・・・太鼓役の師匠本田彦次カの如きは、敵の士官と闘争せんとしたる為め銃剣に突かれ、海中に飛び込み行方不明となれり、・・・吉留直次朗は佩刀を渡せ渡さぬと争ひしが背後より英兵に剣を以て突かれ、・・・』p.491
天佑丸の本田彦次カについては、イギリス海軍士官により短銃で射殺との記述もあります。