2010年11月17日

●「龍馬の力の源泉はグラバーである」(第2940号)

 薩長同盟をもう一度振り返ってみましょう。そのとき京都薩摩
藩邸には龍馬が来るまで、次のメンバーが揃っていたのです。
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  ≪薩摩藩≫     ≪長州藩≫     ≪立会人≫
   桂久  武     木戸 孝允     坂本 龍馬
   大久保利通
   西郷 隆盛
   小松 帯刀
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩藩と長州藩の協議参加者を見ると、明らかにバランスを欠
いています。薩摩藩邸で行われたので、薩摩藩の人数が多いのは
わかるとしても、薩摩藩が実務クラスのオールスターキャストで
臨んでいるのに対し、長州藩は木戸孝允一人です。
 それに加えて、薩摩藩が77万石の大藩であるのに対して長州
藩は37万石の有力藩、この有力両藩の仲介をするのが、土佐の
脱藩浪人である坂本龍馬という個人であるというのですから、明
らかにアンバランスな組み合わせであるといえます。
 銀行でいうなら、薩摩藩の面々は実質的な頭取、副頭取、専務
クラスであるのに対して、長州藩はせいぜい平取締役か部長級で
しかないのです。しかも、その仲介をするのは、実績のない中小
商社の社長というのですから、不思議な組合わせです。
 当時の武家社会においては、確かに薩摩・長州両藩は進歩的な
考え方は持っていたとはいえ、格式や面子には、異常なほどこだ
わったのです。しかも、仲介者である龍馬は下級武士の足軽クラ
ス、本来であれば屋敷に上げてさえもらえないクラスなのです。
 そういう両藩の代表が、10日間もの間、肝心の同盟の話し合
いに入れず、龍馬の来るのをひたすら待っていたのです。どうし
てそのような力が龍馬にあったのでしょうか。
 実は龍馬の力の源泉は、トーマス・B・グラバーなのです。こ
のグラバーに関しては薩摩も長州もアタマが上がらないのです。
グラバーのバックには英国という大国が控えているからです。
 この間の薩摩と長州の事情について、既出の加治将一氏は次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この時期、薩摩を動かせるのは、英国民間諜報部員グラバーを
 おいて他にいない。その筋の呼びかけだからこそ、桂久武、小
 松帯刀、大久保利通、西郷隆盛という錚々たる武士がそろった
 のである。彼らはしぶしぶであったと思う。できれば、こんな
 間尺に合わない救済同盟などごめんである。グラバーに強く言
 われたが、かわしたかった。桂小五郎を十数日間、酒と肴で接
 待漬けにして、なんとか帰ってもらいたかった、というのが本
 音であろう。だからつれなく放っておかれた。しかし、ギリギ
 リになって、駆けつけた龍馬が一喝した。それはとりもなおさ
 ずグラバーの一喝だった。グラバーを怒らせたら、武器輸入は
 途絶え、英国との関係が崩れる。藩にとっては悪夢だ。薩摩は
 承諾せざるを得なかった。しかし「分かり申した」と口頭にと
 どめた。明文化するまでは約束していなかったのだ。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 同盟を結ぶのにその場で文書を交わさない。長州藩から見ると
これも失礼な話です。既に述べたように同盟の内容は軍事同盟で
はなく、長州藩救済同盟なのです。したがって、薩摩藩としては
文書など書きたくない。しかし、長州藩としては何らかの同盟の
証が欲しい──当然の話です。
 そこで木戸孝允は薩摩藩邸を離れてから、同盟内容を手紙とし
てしたため、龍馬に保証を求めたのです。それに対して龍馬は自
身で朱筆で保証をしているのです。つまり、薩摩藩も長州藩も龍
馬とグラバーを一体のものとしてとらえています。
 どうしてグラバーはそのような力を持っていたのでしょうか。
彼は何を目指していたのでしょうか。
 グラバーの目的は、薩長同盟を締結させ、幕府を倒し、自由貿
易ができるようにすることです。ここに、グラバーがロンドンに
一時帰国していたパートナーであるグルームに宛てた手紙がある
のです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 薩摩藩の提督というべき人物との長時間の会見を済ませたばか
 りです。彼の注文はアームストロング砲を百門というのです。
 実際、驚きましたね・・・。真面目な注文でしたから。勿論、
 入手できた暁には藩主にそれ相応の大金を払ってもらいます。
 この一件につき、なにか情報を集めて下さいませんか。政府が
 アームストロング砲の販売を許可するものかどうか。
                      ──山口由美著
   『長崎グラバー邸父子二代』/集英社位新書/0559D
―――――――――――――――――――――――――――――
 この時点でイギリスは薩摩藩に対して武力行使をする方向で動
き出していたのです。したがって、もし、グラバーが薩摩藩との
取引を行うと、敵国への武器輸出となってしまいます。
 このとき、グルームはさすがにまずいと思ったので、この情報
を政府筋に伝えたところ、外務大臣のラッセル卿は、翌1863
年2月、買い付けを禁ずる指示を出しています。
 しかし、薩英戦争が終わると、アームストロング砲は輸出再開
OKとなり、グラバーはアームストロング砲の大きな取引に成功
しています。取引相手は幕府で、大砲合計35門、砲弾700ト
ンの受注です。1865年4月のことです。
 このようにして、やがてクラバーは艦船や武器、弾薬などを売
る「死の商人」として、大きな商売をするようになり、日本で地
位を築いていくのです。当時のイギリスは軍事大国であり、先端
の武器や艦船は良く売れたし、大きな商売になったのです。しか
し、次第に幕府はフランス、薩摩・長州はイギリスという棲み分
けをするようになります。 ―─ [新視点からの龍馬論/31]


≪画像および関連情報≫
 ●アームストロング砲とは何か
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  1858年にイギリス軍の制式砲に採用され、その特許は全
  てイギリス政府の物とされ輸出禁止品に指定されるなど、イ
  ギリスが誇る新兵器として期待されていた。しかし、薩英戦
  争の時に戦闘に参加した21門が合計で365発を発射した
  ところ28回も発射不能に陥り、旗艦ユーリアラスに搭載さ
  れていた1門が爆発して砲員全員が死亡するという事故が起
  こった。その原因は装填の為に可動させる砲筒後部に巨大な
  膨張率を持つ火薬ガスの圧力がかかるため、尾栓が破裂しや
  すかったことにある。そのため信頼性は急速に失われ、イギ
  リスでは注文がキャンセルされ生産は打ち切られ、過渡期の
  兵器として消えていった。      ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

アームストロング砲.jpg
 
アームストロング砲
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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