2010年11月16日

●「松下村塾は特務機関要請学校」(EJ第2939号)

 グラバーについてはこれから詳しく述べていきますが、龍馬と
の接点から先にお話しします。グラバーと龍馬は深く結びついて
いたからです。
 元治元年(1864年)2月5日、勝海舟に長崎出張の命が出
されるのです。そのとき、勝は龍馬を同伴させます。そして、2
月23日に長崎に着くのです。龍馬にとってはじめての長崎の地
です。不思議なのは、龍馬はこの長崎の地に実に40日間も腰を
落ち着けていることです。
 勝海舟の任務は何であったのでしょうか。
 それは長州藩と外国──英国の動静を探ることです。この当時
外国側としては、日本が進めようとしている尊皇攘夷──とくに
大攘夷がいかに馬鹿げているかを日本人に知らせるのは、外国を
見せることが一番手っ取り早かったのです。
 具体的には、日本の進歩的な俊秀を外国に留学させることであ
り、外国側としてはそれをサポートしてやることです。この役割
を担ったのがグラバーであったのです。
 長州藩は、藩黙認の下で藩の俊秀をグラバー邸に出入りさせ、
外国に密航させていたのです。分かっているのは次の5人です。
彼らは「長州ファイブ」と呼ばれていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       伊藤 博文 ・・・・・ 22歳
       井上  馨 ・・・・・ 28歳
       山尾 庸三 ・・・・・ 26歳
       井上  勝 ・・・・・ 20歳
       遠藤 謹助 ・・・・・ 27歳
―――――――――――――――――――――――――――――
 この5人の中で一番有名なのはおそらく伊藤博文でしょう。旧
千円札の顔として万人が知っている人物ですが、同じ幕末の志士
である坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作などと比べると、影の薄い
存在です。しかし、後に日本の初代の総理大臣になり、ハルピン
で暗殺されるほどの影響力のある政治家なのです。明治維新にな
ると、急速に長州藩の面々が主流派を形成するのです。その一人
である伊藤博文は、三菱の創始者、岩崎弥太郎に深く肩入れし、
「三菱の伊藤」といわれたほどです。グラバーとも深く付き合い
親密であったといわれます。
 伊藤博文を含め、幕末の志士に影響を与えたのは長州藩士・吉
田松陰です。吉田松陰が幕末においていかに重要な存在であった
かは、2年数か月に凝縮されている彼の松下村塾での功績です。
これは単に長州藩のみならず、日本にとっても大きな功績であっ
たということができます。その塾生を上げてみても、久坂玄瑞、
高杉晋作、品川弥二郎、桂小五郎、山形有朋、伊藤博文というよ
うに続々と出てくるのです。
 加治将一氏は、松下村塾のことを「特務機関員養成学校」であ
るといっています。それは松陰の説く「情報こそ命」という思想
によくあらわれています。
 松下村塾の塾生は、若くして重要な機密に接する諜報部員とし
ての行動のしかたを心得ていたといえるのです。彼らの行動は藩
主ですら正確に把握できないほど多岐にわたっていたのです。加
治氏は、当時の長州藩について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 虚飾なく言えば、倒幕劇の主役は隠密組織であり、幕末ぐらい
 闇の力を振るい合った歴史はない。長州藩を例にとっても、秘
 密組織は藩主でも正確に把握できないほど強烈に存在した。幕
 府を探る幕府探索組、朝廷探索、外国探索、薩摩藩探索、土佐
 藩探索、会津藩探索、江戸探索、京都探索、長崎探索、大坂探
 索。これ以外にも長州の支藩である清末、長府、徳山、岩国の
 四藩に対するスパイ活動はもとより、自藩内部を監視する組織
 など、隠密綱は縦横無尽に張り巡らされ、情報公開を基本とす
 る我々現代人からは想像がつかないほどの世の中だった。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで坂本龍馬に話を戻します。元治元年2月、龍馬は長崎に
着き、40日間滞在しているのですが、そのときグラバーと間違
いなく会っていると思われます。
 この年の龍馬の動きを探ると、次のようになっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  4月 5日:勝海舟一行、島原より熊本に向かい、龍馬は再
        び横井小楠を訪れ、勝塾入門の親族を同行する
  7月19日:京都で禁門の変(蛤御門の変)が勃発。龍馬は
        江戸に滞在。
  8月 中旬:京都で西郷隆盛と会う
                       ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬の消息は、8月末から掴めなくなり、11月に一度姿を現
し、その5ヵ月後の慶応元年4月5日に京都の薩摩藩吉井幸輔邸
に姿を現しているのです。
 この前半3ヵ月、後半の5ヵ月の間に龍馬は外国へ密航してい
ると考えられているのです。問題はどこに行ったか、です。密航
先は地元ではイギリスという説もあるし、上海という説もあるの
ですが、少なくとも2回にわたって外国に密航していることは確
かであると思われます。そのバックにはグラバーがおり、密航を
助けたといわれています。
 もっともグラバーの力を借りれば、龍馬が上海に行くチャンス
はいくらでもあったといわれています。なぜなら、長崎は江戸よ
りも上海の方が近い距離であり、4日もあれば十分です。
 実際にグラバー自身が頻繁に上海や江戸を行き来していたので
すから、龍馬が上海に行く機会はいくらでもあったといえます。
こういう交流を通してグラバーは龍馬を使える男と判断したもの
と思われるのです。    ―─ [新視点からの龍馬論/30]


≪画像および関連情報≫
 ●「長州ファイブ」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  文久3年5月7日(1863年6月22日)、長州藩士の井
  上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝(野村
  弥吉)、遠藤謹助が、ロンドンへ密航するために、英国商船
  に便乗して横浜を出発しました。<中略>文久3年の時点で
  も、海外渡航は国禁なのですが、密航に失敗した吉田松陰と
  の大きな差は、彼らの場合は藩公認で資金援助も得ていたこ
  とです。また、準備も周到でした。英国領事の紹介でジャー
  ディン・マディソン商会の船に乗って横浜を出発したのでし
  た。この5人は、上海などを経て、英国に到着すると、ロン
  ドン市内に下宿(どちらかというとホーム・ステイ)をし、
  ロンドン大学で物理・化学などを学びました。英国の新聞で
  「長州ファイブ」と紹介された、ちょっとした有名人だった
  ようです。彼らのうち井上と伊藤は元治元年(1864年)
  4月に四国艦隊の下関砲撃計画を知って、途中帰国しますが
  残りの3人は数年間学業を続けました。
  http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1414898
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●長州五傑/長州ファイブ/写真出典:ウィキペディア
  遠藤謹助(上段左)、井上勝(上段中央)、伊藤俊輔(上段
  右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)

長州ファイブ/五傑.jpg
長州ファイブ/五傑
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。