ス・ブレイク・グラバー」です。グラバーは幕末に重要な働きを
するのですが、その一面において、謎の人物といわれているので
す。自分の過去を潜め、己の歴史を消しているからです。
グラバーは、スコットランド北東部、北海に面したアバディー
ンの北にある寒村フレイザーバラで生まれたのです。そして、グ
ラバーが11歳になったときに、アバディーンに移ります。
なぜ、出生地について詳しく述べるのかというと、アバディー
ンがフリーメーソン密度の濃い街として有名だからです。アバデ
ィーンは、当時16万人に満たない街ですが、フリーメーソンの
ロッジは13もあるのです。この数がいかに多いかは、サンフラ
ンシスコという大都市でもロッジの数が12しかないことを考え
れば、わかるはずです。
フリーメーソンに詳しい作家の加治将一氏は、アバディーンと
フリーメーソンの関係について次のように述べています。
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公文書に載っている最古のフリーメーソンの記録が発見された
のも、この地のことだ。1541年、『フリーメーソン・アバ
ディーン・ロッジ』というシールで封印された訴訟関係文書。
日本ではちょうど室町幕府第十二代将軍、足利義晴が治めてい
た時代だが、その当時、フリーメーソン・ロッジがアバディー
ン市を訴えているのだから、いかに彼らの力が強く、また法律
が尊重されていたかが垣間見える。
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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1857年(安政5年)の前半にグラバーは上海に向けて出航
しています。そしてその年の5月か6月頃に上海に上陸している
のです。そのときのグラバーの年齢は、18歳〜19歳ぐらいで
あったと思われます。
上海でグラバーは親戚のつてによって、ジャーディン・マセソ
ン商会に雇われています。ジャーディン・マセソン商会といえば
大商社です。この商会の創業者であるウイリアム・ジャーディン
とジェイムズ・マセソンは、グラバーと同じスコットランドの出
身だったのです。
1958年(安政5年)に安政の5ヶ国条約が結ばれます。日
米修好通商条約のほか、イギリス、フランス、ロシア、オランダ
の5ヶ国と同様の条約を締結したのです。条文の中には、長崎、
神奈川(横浜)、函館の開港が盛り込まれていたのです。
しかし、時の大老井伊直弼は朝廷の許可なく条約を批准してお
り、そのことが幕府と朝廷の軋轢を生み、日本国内は安定ならざ
る状態になったのです。
1859年(安政6年)9月19日、グラバーは長崎に上陸し
たのです。9月16日に上海を出発したP&O汽船会社アゾフ号
に乗って来日したのですが、この船は上海と長崎を結ぶ定期航路
の第1便だったのです。トーマス・B・クラバーが21歳のとき
であり、ジャーディン・マセソン商会から派遣されたのです。
日本には、ジャーディン・マセソン商会の代理人であるマッケ
ンジーがいたのです。グラバーは親子ほど年の違うマッケンジー
の下で、商人としての基本を叩き込まれたのです。
しかし、1861年6月にマッケンジーは日本を離れて、開港
されたばかりの清国の漢口に行くことになったのです。それと同
時にグラバーはマッケンジーからジャーディン・マセソン商会の
代理人の地位を引き継ぐことになったのです。
グラバーはこのチャンスを見逃さなかったのです。これに加え
て、デント商会、サッスーン商会とも代理人契約を結び、発足し
た外国人による長崎商業会議所の代表委員にも選任され、22歳
にして、独立して商売を行うポジションに立ち、責任ある地位を
まかされたのです。
なぜ、グラバーが20歳代前半の若さでこれほど、責任ある地
位を与えられたかについては謎とされていますが、おそらくグラ
バーがフリーメーソンであったからであると思われます。
グラバーは、フリーメーソン発祥の地といわれるスコットラン
ドのアバディーンで育ち、そのつてで上海の商社ジャーディン・
マセソン商会に入っています。上海には、英国の「上海ロッジ」
というフリーメーソンの組織があって、ウイリアム・ジャーディ
ンもジェイムズ・マセソンもフリーメーソンといわれています。
もちろん、マッケンジーも同様です。
しかし、それを証明するものは残っていないのです。なぜなら
清国が共産主義国家になったとたんに「上海ロッジ」は消滅して
しまったからです。
フリーメーソンに詳しい加治将一氏は、グラバーがフリーメー
ソンであった可能性について次のように述べています。
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徒手空拳の青年が、一人で事業を始めるにあたって「上海ロッ
ジ」という偉大なる拠点とつながりを持たない理由はない。メ
ーソンに入れば、絶大なサポートやコネが期待できるのだ。夢
はロッジにある。馬鹿でないかぎり入会するはずだ。グラバー
も当たり前のごとく、メンバーになった。だからこそ、長崎の
丘に建つグラバー邸に、フリーメーソンのマークの入った石柱
が立ち、おいおい述べるが、彼の人生は実力あるフリーメーソ
ンたちに囲まれていたのである。
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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加治将一氏によると、グラバー邸内には、現在は撤去されてい
ますが、メーソンマークの付いた石柱があったというのです。加
治氏は実際にそれを確認しています。これは「長崎ロッジ」の存
在を裏付けているというのです。ちなみにフリーメーソンは宗教
組織ではありません。その実体はなかなか表にはでないので、少
しずつ明らかにしていくつもりです。
―─ [新視点からの龍馬論/29]
≪画像および関連情報≫
●「上海ロッジ」はダークネス・ロッジ化している!?
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中国共産党は利口だ。英国ロイヤルファミリーに直結してい
る「上海ロッジ」の利用価値は充分に認識しており、「ダー
クネス・ロッジ」として密かに活用しつづけているのだとい
うのである。実際、商社のジャーディン・マセソンが革命後
の中国共産党と親密な関係にあり、莫大な利益を得ているこ
とを考えれば、闇のロッジが存続しているとしてもさほど突
飛なことではない。
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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グラバーの肖像/長崎県