人が揃っていたのです。そこに木戸孝允がやってきて10日間も
一緒にいたのです。当然、木戸は3人と話をしたのですが、誰も
薩長同盟の話を切り出さないのです。歓待はしてくれるのですが
肝心なことは何も話さないのです。
こういう状況になったのは、お互いに藩としての体面があるか
らです。自分の方からはいい出したくないのです。そのため西郷
も木戸も龍馬が来るのをひたすら待っていたのです。
薩長同盟は、龍馬の提案に薩摩と長州が乗ったというかたちに
なっていますが、西郷は最初から薩長同盟ができればベストであ
ると考えていたのです。しかし、薩摩の方から提携を持ちかけて
も成功率は低いのです。
しかし、西郷ははじめて龍馬に会い、龍馬の話を聞いたときか
ら、龍馬は薩長同盟の代理人として使えると確信したのです。だ
からこそ、西郷は勝海舟から龍馬をはじめ30人もの脱藩浪人を
預かり、まとめて面倒を見ることにしたのです。
木戸にしてもこの同盟は望むところであり、多少不快なことが
あっても成立させたいと考えていたのです。龍馬が来てから話し
合いは一挙に進み、次の6ヵ条がまとめられたのです。
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1.長州藩と幕府軍が開戦した場合、薩摩藩は2000人の藩
兵を上京させ、在京中の藩兵とともに京坂を固めること。
2.長州藩が戦に勝利したさいは、薩摩藩は朝廷にこれを伝え
必ず「尽力」すること。
3.長州藩の敗色が濃厚になっても、1年や半年は持ちこたえ
るので、薩摩藩はその間に「尽力」すること
4.再征戦が開戦せず、幕府軍が引き揚げたさいは、朝廷より
冤罪を免じられるよう薩摩藩は「尽力」すること。
5.長州藩が上京したさい、一会桑が朝廷を楯として「尽力」
に抵抗した場合、長州藩は決戦に及ぶほかはないこと。
6.長州藩の「冤罪」が免じられたさいには、薩摩藩とともに
国家のために尽力することはもちろん、勝敗いずれにして
も、両藩は国家のため、皇威回復に尽力すること。
──菊地明著
『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
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ここで想定されているのは、長州藩と幕府軍との武力衝突、す
なわち、第2次長州征伐が起こったときの薩摩藩と長州藩の対応
をとりまとめたものなのです。
第1条は薩摩藩が傍観者とならないことを求めており、第2条
は長州藩の勝利、第3条は幕府軍の勝利、第4章は交戦回避の場
合の対応について定めています。第5条は長州藩の入京が認めら
れた場合の対応についての規定です。
第6条に出てくる「冤罪」とは、長州藩が朝敵とされたことを
幕府による冤罪ととらえているのであり、名誉を回復するために
薩摩藩が「尽力」することを謳っているのです。
この6ヵ条を見る限り、この同盟は軍事的なものではなく、長
州藩の名誉回復──すなわち、長州藩が京都から排除された文久
3年(1863年)8月の政変以前の状態への長州藩の復権なの
です。それに薩摩藩が力を貸すという内容なのです。
なお、ここまで「薩長同盟」と書いてきましたが、「同盟」と
は「攻守同盟」を意味し、軍事同盟的色彩が強いのです。しかし
薩長同盟はそうではないのです。したがって、同盟というより、
「薩長連合」とか「薩長盟約」とか、文書によっていろいろ表現
が異なるのですが、EJでは「薩長同盟」と表記します。
なお、薩長同盟の6ヵ条は会議の席で合意文書として交わされ
たものではなく、京都から大阪に下った木戸孝允が、慶応2年1
月23日付で龍馬に宛てた手紙に6ヵ条にまとめて記されたもの
です。そして木戸は、薩長和解の内容について、間違いがなけれ
ば「御裏書き御答えひとえに願い上げ奉り候」と龍馬に対して確
認を求めたのです。これを読んだ龍馬は、盟約書の裏書に次のよ
うに記述しています。
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表記の六ヵ条は、小松帯刀、西郷隆盛の両人と、私・坂本龍馬
も同席して協議したことに些かも相違なく、将来も変わらぬこ
とは神明も知るところである。 ──山本 大著
『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
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龍馬が大任を果たして伏見の寺田屋に戻ると、その深夜伏見奉
行所が坂本龍馬を襲ったのです。これを第2の寺田屋事件という
のです。寺田屋事件には次の2つがあるのです。
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1.文久2年に発生した薩摩藩による尊皇派の鎮撫事件
2.慶応2年発生の伏見奉行による坂本龍馬の襲撃事件
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このとき龍馬はピストルを撃ち尽くし、負傷して動けなくなっ
たのですが、三吉慎蔵とお龍が伏見の薩摩屋敷に救援を求めに行
き、駈けつけた薩摩藩士によって命を救われています。
事件はただちに西郷に知らされ、西郷は医師と武装兵を伏見に
急行させています。伏見奉行所は、龍馬は薩摩藩邸にいると知り
龍馬の引き渡しを求めたのですが、一蹴されています。
龍馬は藩邸内で治療を受け、いくらか容体が良くなった2月1
日に、武装した薩摩藩の銃隊に護送され、幕吏の警戒を尻目に、
堂々と、伏見から京都の薩摩藩邸に移っています。
坂本龍馬は、ここでの治療中に中岡慎太郎を媒酌人にしてお龍
と結婚しているのです。やがて元気を取り戻した龍馬は、お龍と
ともに西郷らの船に同船して鹿児島に行くことになったのです。
慶応2年3月4日のことです。龍馬にとって、この鹿児島行きは
新婚旅行になったといえます。
―─ [新視点からの龍馬論/27]
≪画像および関連情報≫
●龍馬自筆「薩長同盟裏書」を公開
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坂本龍馬が薩長同盟の合意内容を保証する書き込みをした文
書「薩長同盟裏(うら)書(がき)」など、皇室に伝わる貴
重な史料を集めた「皇室の文(ふみ)庫(くら)」展が9月
18日から、皇居・東御苑の三の丸尚蔵館で開かれる。宮内
庁書陵部によると、「薩長同盟裏書」は1866(慶応2)
年に薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)
らが同盟の密約を交わした後、密約の実効性に不安を覚えた
桂が、同盟の仲介人である龍馬に内容を確認するよう手紙で
求め、龍馬が手紙の裏に赤字で間違いないと裏書きしたもの
である。木戸家から皇室に献上された。
──2010.8.2産経ニュース
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薩長同盟6ヵ条の龍馬の裏書き