マでは、船内に幕府の隠密が潜んでいたので、秘密が漏れるのを
恐れた西郷が、そのまま胡蝶丸を大阪に直行させたという設定に
なっていたと思いますが、その事実はないと考えます。
史実に基づいて考えてみます。慶応元年(1865年)、中岡
は京都で西郷と会う予定だったのですが、会えずに鹿児島まで西
郷を追っかけてきたのです。しかし、鹿児島でも会えず、胡蝶丸
の出港直前に会って事情を話したものと思われます。
胡蝶丸は鹿児島を出港すると、宮崎県の外浦(とのうら)港に
寄港し、なぜか2泊しているのです。推測ですが、中岡はここで
西郷に事情を話し、下関下港を要請したのではないかと思われる
のです。いずれにせよ、西郷は下関での木戸との会談計画を知っ
たうえで、下関を素通りしたのではないということです。これに
ついて、菊地明氏は西郷は下関での木戸との会談を知らなかった
として、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
会談を承諾したうえで急遽、予定を変更して西郷が下関寄港を
拒んだのであれば、中岡に桂への謝罪状を託してもいいし、上
京後に送ってもいい。ところが、その形跡はない。違約に対す
る罪悪感がないのだ。それは、下関での桂との会談が約束され
たものではなかったことを示している。だからこそ、西郷の謝
罪状が存在しないのではないだろうか。『維新土佐勤王史』等
で語られる西郷の突然の違約は、瓜生との面談での桂の言葉が
曲解された結果のようである。 ──菊地明著
『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
西郷が下関を素通りしたことを知った木戸は当然のことながら
怒りを隠さなかったのです。「それ見給え、僕は最初からコンナ
ことであろうと思っておったが、果たして薩摩のために一杯喰わ
されたのである。もうよろしい。僕はこれから帰る」──木戸は
このようにいったものの、龍馬と中岡には再会談の条件を告げて
いるのです。その条件とは次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
1.薩摩藩から使者による和解の議を申し入れてくること
2.外商から艦船の購入に薩摩の名義を借してくれること
―――――――――――――――――――――――――――――
2の条件がなぜ入ったかについては、そのとき長州藩は朝敵で
あり、幕府が朝敵である長州藩に外国との取引を禁じていたため
なのです。幕府は第2次長州藩征伐を進めているときであり、長
州としては開戦に備えて軍艦の増強が不可欠だったのです。
慶応元年6月24日、龍馬と中岡は京都の薩摩藩邸で西郷と会
い、薩摩藩名義で汽船を購入する件を申し入れ、諒解を取ること
に成功します。龍馬は直ちに汽船購入の仲介斡旋の件を近藤長次
郎に指示したのです。これは事実上亀山社中の最初のビジネスに
なるのです。
西郷もひとつ条件を出しています。西郷としては、朝廷が第2
次長州征伐の勅許を出さないよう、大量の薩摩軍を上京・集結さ
せることによって、朝廷を威嚇する必要があったのです。そのた
め薩摩兵の糧米を下関で補給できるよう、取り計らって欲しいと
いう要請です。
しかし、9月下旬になって、朝廷は幕府の圧力に負けて、長州
再征の勅許を出すのです。こうなると、薩摩としては長州を守る
ためにも長州との同盟は不可欠なものになります。
龍馬は、京都から西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の薩摩藩首
脳の意を受けた薩摩藩士の黒田了介とともに下関に乗り込み、木
戸孝允と会見したのです。そのとき、龍馬は木戸孝允に次のよう
にいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
木戸さん、今が決断のときじゃきに、藩の体面や駆け引きは
忘れて、西郷と会うてつかさい。 ──坂本龍馬
―――――――――――――――――――――――――――――
木戸はそれでも慎重な姿勢を見せていたのですが、同席した高
杉、伊藤、井上が口をそろえて勧めたので、やっと重い腰を上げ
ることになったのです。
慶応元年12月26日、木戸孝允は品川弥二郎らを連れて山口
を出発し、京都に向かいます。黒田了介も一緒です。龍馬は別行
動ですが、その後を追うのです。長府藩士・三吉慎蔵、土佐の同
志・池内蔵太を同道し、下関を出港して京都に向かっています。
慶応2年1月10日のことです。
既に木戸孝允たちは昨年末に出立しているのですから、龍馬た
ちはもっと急ぐべきですが、わざととしか思えないほどゆったり
とした旅を続けているのです。3人は1月17日に神戸に着き、
次の日に大阪に入っています。そして、勝海舟の後の軍艦奉行で
ある大久保一翁(忠寛)に会いに行っています。その大久保一翁
は龍馬らに次のように警告しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
おめえたちが入京するてぇ情報を、見廻組の探索方が、もう
掴んでいるよ。市中警戒には新選組や別手組も、昼夜の別な
く廻っているんだ。用心しな。 ──大久保一翁
―――――――――――――――――――――――――――――
このとき3人は、薩摩の通行手形を持ち、髪も薩摩風に結い直
し、龍馬は高杉晋作から贈られた、護身用の米国製6連発のピス
トルを懐中にしていたのです。
3人は夜明け前に薩摩藩の船で淀川をさかのぼり、伏見蓬莱橋
にある薩摩藩の定宿・寺田屋に着いて一泊し、翌日どうにか無事
に京都の薩摩藩邸に入ったのです。そこには10日も前から滞在
していた木戸孝允が、カリカリして龍馬を待っていたのです。話
は龍馬が来てからという木戸の意思で、いっさい何も行われてい
なかったのです。木戸は龍馬を待っていたのです。
―─ [新視点からの龍馬論/26]
≪画像および関連情報≫
●新選組と見廻組について
―――――――――――――――――――――――――――
新撰組は、祇園や三条等の歓楽街をテリトリーにしていまし
た。それに対して見廻組は御所や二条城等の官庁街を見廻っ
ていました。また本来見廻組は幕府直轄の組織で、反幕過激
派対策組織でした。これに対して新撰組は、京都守護職松平
容保の支配下にある非正規組織で、主に不逞浪士の取り締り
が任務です。従って合同捜査を行ったり、共同戦線を張るよ
うなことはありませんでした。ですので、今回の放送のよう
に「怪しい者を捕らえたら見廻組に報告せよ」ということは
ありません。身分に関しては新撰組は浪士(町人や農民含む)
で、見廻組は旗本の次男・三男で腕に覚えのある部屋住みが
選ばれたようです。なので、土佐の上士と下士以上の開きが
あったことは間違いないようです(後に近藤らは幕臣に取り
立てられますが)。組員は新撰組が最大で200人、見廻組
が400人ということになっていますが、通常はその半分も
いなかったのではないでしょうか?
http://ryoumadn.seesaa.net/article/161349483.html
―――――――――――――――――――――――――――
京都薩摩藩邸