小倉で会ったのです。そのとき中岡は「寺石貫夫」という変名を
使っています。西郷は中岡が五卿に随伴していることを知って、
面会を申し入れてきたのです。中岡は場合によっては西郷を斬る
気で会見に応じたのですが、話し合っているうちに西郷の誠意に
打たれ信用するようになります。そして五卿の移座に協力するこ
とを約束するのです。後に中岡は西郷に会ったときの印象を次の
ようにいっています。
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西郷ちゅうのは、肥大な人物で後免の要石(ごめんのかなめい
し)よりでっかい。 ──中岡慎太郎
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「後免」というのは土佐高知城外の後免町のことで、「要石」
は実在の力士の名前なのです。いずれにしても、これが薩長同盟
の最初の布石につながるのです。
西郷は続いて同年12月、下関の稲荷町の大坂屋で高杉晋作と
会っています。西郷が馬関(下関)に来るということを知った長
州の激派は「馬関の海は薩摩人にとっての三途の川であり、渡っ
てきたら帰さない」と意気込んでいたといいます。
西郷の側近は、そういう状況なので、行くことに懸念を示した
のですが、高杉が会うといっているなら行かなければならないと
いって下関に行き、高杉との会見に臨んだのです。そしてこの高
杉との会見によって、征伐軍が撤退した後で、五卿が筑前(福岡
県)に移るという合意がなされたのです。
慶応元年(1865年)1月4日、五卿は馬関を渡り、大宰府
に向い、五卿の他藩移座が実現したのです。これに中岡慎太郎と
土方久元の2人が随行したのです。
話はここでEJ第2930号の最後の部分に戻るのです。坂本
龍馬は、鹿児島に渡った海軍塾の塾生たちを小松帯刀に同行させ
て長崎に行かせると、自分は大宰府に向かうのです。中岡慎太郎
に会うためです。
慶応元年(1865年)5月下旬、坂本龍馬は大宰府で三条実
美ら五卿に謁見し、五卿に薩長同盟を推進することを約束するの
です。問題は、薩長同盟をどうやって成立させるかです。鍵を握
るのは、西郷隆盛と木戸孝允の2人です。両人とも薩長同盟を望
んでいたのです。
ここまで2つのルートで薩長同盟の実現への努力が進められて
きたのです。1つのルートは、木戸の思いを背負って西郷を説得
する中岡慎太郎の行動と、西郷の承諾を得て木戸を説得する坂本
龍馬の工作の2つです。
もともと長州藩士の薩摩・会津に対する憎悪は根深いものがあ
るのです。8・18の変でも、蛤御門の変でも、長州は薩摩と会
津に敵味方に分かれて争っていますし、昔から長州人は薩摩・会
津を呼ぶときは次のようにいっていたのです。
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討薩賊会奸(とうさつぞくあいかん)
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つまり、薩摩を「薩賊」と呼び、会奸は「会津の奸物」という
意味であり、長州人はとくに薩摩人は嫌いで、下駄や草履に「薩
賊」と書いて、足の下に踏み歩く人も多かったのです。
そういう薩摩と長州を同盟させるのは容易なことではなかった
のです。しかし、第1次長州征伐のさいの西郷隆盛の長州に対す
る配慮や五卿の大宰府への移座における中岡慎太郎や西郷隆盛の
尽力、それに薩摩や長州が反目しているときではなく、日本のた
めに雄藩は連合すべきであるということを説く坂本龍馬の説得に
よって、薩摩と長州の溝は少しずつ埋められてきたのです。
坂本龍馬は、大宰府で長州藩士の小田村素太郎と知り合いにな
り、小田村を通じて山口にいる木戸孝允と会見する道を探ること
になったのです。
慶応元年5月、龍馬は下関に渡っています。そして白石正一郎
の屋敷で、三条実美の隋人である土方久元に会っています。その
土方は龍馬に、薩長を融和させるために中岡慎太郎が鹿児島へ西
郷隆盛を迎えに行き、自分はこの下関で木戸を説得するために来
ていることを告げたのです。
これで、これまで同じ目的を持ちながら、2つのルートに分か
れていた薩長同盟実現への工作──木戸の期待を背負って西郷の
説得役の中岡慎太郎と、西郷の意を組んで木戸を説得する龍馬の
ルートがはじめて一本化する可能性が生まれたのです。
ちょうどそのとき、京都では、第2次長州征伐を積極的に推進
する動きが強まり、薩摩藩としては帰国している西郷を上京させ
て緊急事態に備えることになったのです。絶好の機会が来たので
す。中岡としては上京の途中で西郷を下関に上陸させ、木戸と会
見したうえで薩長融和の策を進めるというのが、中岡や土方の描
いた計画だったのです。
龍馬はこれを聞いて喜び、木戸や土方とともに西郷の下関到着
を待ったのです。しかし、そうならなかったのです。慶応元年5
月16日、西郷と中岡が乗った胡蝶丸は九州の東岸を北上し、外
浦港(宮崎県)に入港して2泊し、18日には佐賀関(大分市)
へ寄港。ここで中岡慎太郎だけが下船しているのです。
西郷を乗せた胡蝶丸はそのまま航行を続けて19日には大阪に
到着し、西郷は23日には京都入りしているのです。なぜ、この
ような結果になったのかはわかっていないのです。
このときの胡蝶丸の航跡を辿ると、そのまま瀬戸内海には入ら
ず、今度は南下して土佐の足摺岬南方を東行し、太平洋コースで
大阪湾に至っているのです。佐賀関まで行けば、瀬戸内海を通過
した方が距離的に無駄はなく、合理的なのです。
問題は佐賀関になぜ寄港したかなのです。西郷は中岡慎太郎に
下関寄港の計画を出港の寸前に聞かされ、実現不能なので、中岡
を下関に近い佐賀関まで送り届けたのではないかと想定されてい
ます。 ―─ [新視点からの龍馬論/25]
≪画像および関連情報≫
●中岡慎太郎の『時勢論』について
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『時勢論』に於ける中岡の先見」──(学研)歴史群像より
文久三年、九月五日、慎太郎は、土佐を脱藩し、三条実美と
面会する。倒幕の為の行動を起こす為である。薩長和解を龍
馬に語り、西郷や長州藩の同志を説き、桂小五郎にも面会す
るなど、精力的に東奔西走していた慶応元年十一月二十六日
夜、『時勢論』を書き上げる。何の為の攘夷か、何の為の倒
幕か、例を古今に求め、薩長の天下を予言した一篇となって
いる。「今から後、国を盛んにするのは、必ず薩摩と長州で
ある。自分が思うに、天下が近日のうちに、この二藩の命に
従うようになるのは、ちょうど鏡にかけて見るようなもので
ある」と早くも王政復古後の薩長藩閥政権を断言している。
http://tjhira.web.infoseek.co.jp/nakaoka.htm
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中岡 慎太郎