2010年11月08日

●「木戸孝允と久坂玄瑞の行動の違い」(EJ第2933号)

 もう一人の長州藩の幕末の志士は、木戸孝允(たかよし)、旧
名は桂小五郎です。安政年間(1854年〜59年)に孝允と龍
馬は江戸にいたのです。
 龍馬は千葉道場、孝允は斉藤弥九郎の道場で共に剣技を磨いて
いたのです。そしてときどき、鍛冶橋の土佐屋敷で行われた剣術
の試合で2人は顔見知りであったようです。もしかしたら、2人
は手合わせをしたかもしれないのです。
 龍馬は文久2年に脱藩し、専ら藩の外で活躍する道を選んだの
に対し、木戸孝允は龍馬とは対照的な活躍をしているのです。あ
くまで藩の中に身を置き、大検使という地位につき、さらに京都
留守居役という重職に任じられたのです。
 実は、九門からの長州藩兵の締め出し、池田屋事件、蛤御門の
変という一連の長州藩にとっての大事件に関しては、高杉晋作と
木戸孝允の2人はほとんど関与していないのです。ちなみに高杉
晋作は、木戸孝允よりも6歳年下です。
 もっとも池田屋事件のとき、木戸孝允は池田屋に行っているの
ですが、間一髪のところで池田屋を出て助かっています。すべて
において木戸孝允は行動が慎重で、自分の身を大事にして行動し
ており、いずれ自分の出番がくることを自覚していたので、そう
いう行動をとっているのです。実に冷静な男なのです。
 蛤御門の変の前日、木戸孝允は変装して京都に潜伏していたの
ですが、まもなく但馬(兵庫県)に逃れています。そして商人に
変装し、翌年の慶応元年まで但馬の出石(いずし)というところ
に潜伏していたのです。
 一方高杉晋作は、元治元年(1864年)1月に京に積極的、
激烈に出兵を主張していた来島又兵衛の行動を止めようとして失
敗、脱藩して京都に出てきたのです。
 しかし、2月の下旬に木戸孝允は高杉晋作と会い、説得して高
杉を萩に連れ戻しています。3月29日に高杉は脱藩の罪で野山
獄に投ぜられますが、6月21日には出獄を許され、自宅で謹慎
していたのです。その間に池田屋事件、蛤御門の変が起きている
のです。つまり、高杉晋作は池田屋事件や蛤御門の変には何もか
かわっていないことになります。
 そのとき中心になって動いていたのは久坂玄瑞や真木和泉なの
です。久坂は1840年生まれであり、木戸よりは7歳、高杉よ
り1歳年下です。しかし、急進派といわれる久坂玄瑞なのですが
少なくとも突撃派の来島又兵衛と違い、彼の考え方には一本筋が
通っていたのです。
 6月24日に久坂玄瑞は、来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率
いて東上しますが、長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し
朝廷に奉っています。8・18の政変で長州藩が京都から締め出
されたことを何とか解決しようとしたのです。
 そして朝廷から退去命令が出ると、久坂は兵を引こうとし、進
軍すべきと主張する来島又兵衛や真木和泉らと対立します。その
とき久坂玄瑞は次のように彼らを説得しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今回の件は、もともと、君主の無実の罪をはらすために、嘆願
 を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出
 して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子
 君の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をす
 るか否かを決するがよいと思う。今、軍を進めたところで、援
 軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見
 込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが。
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、来島又兵衛は久坂を卑怯者呼ばわりをし、真木和泉も
来島を支持したので、戦闘が開始されたのです。しかし、朝廷側
約3万人に対して長州藩はたったの2000人──勝てるはずが
ないのです。しかし、久坂は黙って戦闘に参加したのです。
 この戦闘は後に「禁門の変」とも「蛤御門の変」(EJでは蛤
御門の変)ともいわれるのですが、なぜ蛤御門の変といわれるの
かというと、来島又兵衛の率いる部隊が担当したのが蛤御門であ
り、その戦いぶりは見事なもので、守備する会津藩をあと一歩の
ところまで追い詰めたのです。この戦いでの最大の激戦が展開さ
れた門という意味で「蛤御門の変」と名付けられたのです。
 しかし、西郷隆盛が指揮する薩摩藩が援軍に加わると、来島勢
は一転して劣勢となり、来島が狙撃されて長州軍は総崩れになっ
たのです。
 一方、久坂玄瑞は薩摩兵を破ったのち、鷹司邸の裏門から邸内
に入ることに成功します。玄瑞は一縷の望みを鷹司卿に託そうと
したのです。そして鷹司卿に朝廷への参内のお供をし嘆願をさせ
て欲しいと哀願したのですが、卿は玄瑞を振り切って邸から出て
行ってしまったのです。鷹司邸は火を放たれ、すでに火の海とな
っており、玄瑞は全員に退却を命じ、自らは自刃して果てたので
す。享年25歳だったのです。
 ここでひとつ触れておくべきことがあります。第1次長州征伐
の裁きによって、三条実美ら五卿を他藩に移動させる件です。こ
れについては、当の五卿自身や長州藩の諸隊で反対の声が上がっ
てすぐに実現できなかったのです。
 そこに高杉晋作が兵を上げ、庄屋や豪農豪商の支持を得てクー
デターは成功します。慶応元年(1865年)2月のことです。
ここに登場するのは中岡慎太郎です。中岡は元治元年(1864
年)11月30日に功山寺で三条実美に拝謁しているのです。
 中岡慎太郎は龍馬と同じ土佐藩の志士であり、土佐勤王党にも
入っていたことがあります。文久3年(1863年)に土佐藩を
脱藩し、長州藩内の状況を見てきたのです。自身も蛤御門の変に
出撃して負傷し、外国艦隊との交戦にも加わっています。
 その中岡は、元治元年12月4日に難航している五卿移転問題
の解決のため、西郷隆盛と会っているのです。申し入れたのは西
郷の方です。       ―─ [新視点からの龍馬論/24]


≪画像および関連情報≫
 ●木戸孝允/桂小五郎とは
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  木戸孝允は、幕末〜明治時代初期に活躍した日本の武士・政
  治家。名の孝允は「こういん」と有職読みのされることもあ
  る。位階勲等はは贈従一位勲一等。長州藩士で、「長州閥」
  の巨頭。幕末期には、桂小五郎として知られていた尊攘攘夷
  派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに、維
  新の三傑として並び称せられる。維新十傑の1人でもある。
                    ──ウィキペディア
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木戸孝允(桂小五郎).jpg
木戸 孝允(桂 小五郎)
posted by 平野 浩 at 04:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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