2010年11月05日

●「高杉晋作はどのような人物だったか」(EJ第2932号)

 長州藩の幕末の志士といえば、何といっても高杉晋作と木戸孝
允(桂小五郎)の2人でしょう。
 高杉晋作は、藩校の明倫館で学んだあと、吉田松陰の松下村塾
に転じてからめきめきと頭角をあらわし、久坂玄瑞と並ぶ存在と
されたのです。この高杉晋作を師の吉田松陰は、次の言葉で評価
しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 識見気魄、他人に及ぶなく、人の駕御を受けざる高等の人物
―――――――――――――――――――――――――――――
 文久2年(1862年)に幕府の貿易調査船に乗って中国の上
海に渡航し英国人に浸食される中国の状況を視察しています。こ
の経験から、日本は、攘夷にせよ、開国にせよ、十分に国力をつ
けてからやらないと大変なことになることを実感したのです。
 最初のうちは、過激派の久坂玄瑞とともに外国公使館の焼き討
ちなどに参加していたのですが、そのうちに尊攘派に賛成できな
くなり、藩に10年間の休みをもらって剃髪し、「東行」と号し
て萩に潜居していたのです。
 しかし、馬関(下関)戦争が起こり、戦闘のプロであるはずの
武士団が諸外国のわずかな軍艦の前に大敗北を喫すると、藩主は
たまらず高杉晋作を呼び出し、藩の軍事力を強化する方策を策定
するようを命じたのです。困ったときの高杉晋作です。
 そのとき、高杉は「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくり
たい」と提案し、新しい組織原則に基づく「奇兵隊」を結成し、
自ら総監になったのです。そして奇兵隊を中心として、遊撃、八
幡、集義、義勇の諸隊を編成し、正規軍と対立しながらも藩の軍
事力の中心に育っていったのです。
 新しい組織原則とは何かというと、まず、身分の低い者でも入
隊可能であるということです。さらに、隊内では身分に上下なく
全員が同志という扱いなのです。これは吉田松陰の「草莽崛起」
の理想を実現したものなのです。
 加えて能力主義によって階級を定めたので、能力がないのに門
閥や身分により階級が決まってしまう様な武士軍団と比べ、非常
に合理的な部隊となり、強い戦闘力を持っていたのです。
 一方、下関の市街が諸外国軍の砲火に晒されてしまうに及んで
農民町人たちは「武士はあてにならない。自分たちの故郷や村は
自分たちで守らなければならない」と自覚したため、多くの入隊
希望があったといいます。
 しかし、当然のことながら、正規軍との対立は激しく、高杉は
ささいなことの責任を取らされ、総監を解任されてしまいます。
そのため高杉は脱藩して京都に亡命するのです。
 しかし、京都から尊攘派が追い出されると、亡命していた高杉
は自ら帰藩し、脱藩の罪で投獄されたのです。そのあと、米英仏
蘭の連合軍との休戦協定を結ぶために出獄し、伊藤、井上ととも
に活躍したことは既に述べたとおりです。
 しかし、再び俗論派に追放され、再び博多に亡命するのです。
そして元治元年12月15日に高杉は、功山寺で決起し、クーデ
ターを起こすのです。
 このとき、下関の功山寺に集まったのは、伊藤俊輔(博文)率
いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人だったので
す。功山寺とは三条実美ら五卿がいた寺なのです。
 高杉は五卿に対し、「これよりは長州男児の腕前お目に懸け申
すべく」と挨拶をし、この挙兵が私利私欲からなるものでないと
断った上で、下関新地会所を襲撃して占拠します。さらに、18
名からなる決死隊は三田尻の海軍局に攻め入り、「丙辰丸」など
軍艦3隻を無血にて奪取することに成功したのです。
 この功山寺挙兵の日、12月15日にはワケがあるのです。当
初は12月14日を挙兵時期に定めていたといわれますが、何ら
かの事情で1日ずれてしまったのです。この日は吉良邸討ち入り
と同じ日であり、高杉の師である吉田松陰が東北遊学のために危
険を冒して脱藩した日でもあるのです。高杉晋作の挙兵はそうい
うやむにやまれぬものであったのです。
 実は12月27日から、長州の藩境を囲んでいた長征軍の諸隊
は撤兵を開始しはじめたのですが、そういう諸隊は長州藩内でま
さかクーデターが起こっていようとは誰も気がついてはいなかっ
たのです。そして年が明けた慶応元年(1865年)1月に次の
2つの戦争が起こるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.絵堂の戦い
           2.大山の決戦
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応元年1月6日に「絵堂の戦い」が起こります。敗戦処理を
終えた毛利親子が蟄居に服したその夜半、高杉軍を殲滅するため
に絵堂に集結していた政府軍1000人に対して、奇兵隊の精鋭
200人が夜襲を仕掛け、これを撃破したのです。
 同年1月14日に「太田の決戦」が起こります。政府軍は最後
の決戦をすべく、絵堂に近い太田に兵を集め、奇兵隊に攻撃を仕
掛けます。しかし、激闘10日間、戦いは政府軍が敗走し、たっ
た2ヶ月で、長州藩の天下は勤王革命派が握ったのです。
 当然のことながら、幕府は、奇兵隊の勝利による政権再交代劇
を苦々しく思ったのです。もともと幕府は西郷の処分は甘すぎる
と思っていたので、それが第2次長州征伐の詔勅を求める動きに
つながったのです。
 しかし、長州征伐の詔勅はそう簡単には下りなかったのです。
それは、第1次長州征伐を事実上仕切った薩摩の西郷の政治力が
働いたからです。
 幕府が待ちに待った第2次長州征伐の詔勅は、大幅に遅れて、
1年あまり経過した慶応2年(1866年)6月7日にようやく
下されたのです。しかし、この詔勅が遅れている間に幕府にとっ
て、とんでもない事件が密かに進行していたのです。それが薩長
同盟なのです。       ―─ [新視点からの龍馬論/23]


≪画像および関連情報≫
 ●高杉晋作・コムより
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  連合軍との講和談判が整ってすぐ、長州藩内では、幕府寄り
  の政治を推し進める、俗論党が要職を占めることになってし
  まいました。これにより、討幕を推し進めていた高杉晋作の
  仲間たちは、次々に排除されていくことになりました。井上
  門多は襲われ瀕死の重傷を負い、周布政之助は藩政を窮地に
  追い込んだ責任をとり自決、高杉晋作も、自分の身の危険を
  感じはじめていました。このままでは自分の命も狙われると
  悟った晋作は、福岡の平尾山荘に住んでいる、野村望東尼の
  もとに潜伏し、長州の情勢を見守ることにしました。長州藩
  がどんどん幕府寄りになっていく様子を、しばらくみていた
  高杉晋作は、いまこそ行動をおこすときだと判断し、下関に
  戻りました。
       http://www.takasugi-shinsaku.com/taka113.html
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高杉晋作/功山寺決起.jpg
高杉 晋作/功山寺決起
posted by 平野 浩 at 04:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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