は、長門(ながと)と周防(すおう)の2ヶ国を合わせた毛利領
のことであり、現在の山口県に当ります。長州藩とも毛利藩とも
萩藩とも──居城が萩にあった──呼ばれています。
戦国時代の名門毛利家は、中国地方の8ヵ国を領有する雄藩で
す。しかし、この藩は外交力がきわめて下手な藩なのです。その
下手さ加減は遺伝的ともいうべきレベルであったのです。まるで
現在の菅内閣のそれと同じです。
それは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後の政治折
衝の稚拙さに見ることができます。長州の毛利輝元はこの戦いで
西軍の総大将の地位にあったのです。しかし、その毛利輝元は最
後まで曖昧な態度を取り続け、圧倒的有利であったはずの西軍は
敗北してしまうのです。
しかし、関ヶ原の戦いで徳川方に勝利をもたらす重要な原因に
なったのは、毛利両川(もうりりょうせん)といわれる筑前36
万石の小早川秀秋と出雲14万石の吉川広家の両家が徳川方に内
応したからであるといえます。
したがって、毛利本藩としては、これを交渉材料にしてどのよ
うにでも徳川方と強気の交渉ができたはずなのです。しかし、毛
利本藩はひたすら、徳川家康に対して恭順の意を示すだけで、交
渉らしい交渉をせず、やっと断絶を免れているのです。
それには、吉川広家の献身的な働き掛けがあり、その結果、吉
川家は領地を失い、毛利領内に一領(岩国)を得る準藩に甘んじ
たのです。そして、毛利本家は、中国8ヶ国120万石を領する
大国から、2国一領の36万石に減封されたのです。
ちなみに小早川は、備前美作51万石を領したものの、秀秋に
は遺子がなく、その死によって1602年に断絶になっているの
です。完全なる外交の失敗です。
これに対して薩摩藩はどうでしょうか。
天正15年(1587年)に秀吉の九州・島津討伐軍に降伏し
1600年の関ヶ原の戦いには毛利と同様に西軍に参陣して敗北
しています。しかも、関ヶ原の戦いでは毛利家のように徳川方に
何も貢献していないのです。
ところが島津家は鎌倉以来の大名家として戦国期を通じて生き
抜いてきており、危機を乗り超えるDNAを受け継いでいるので
す。外交力がしたたかであり、2度にわたる敗戦で、一片の土地
も手放さずに危機を乗り越えているのです。
しかも、たとえ幕吏といえども、薩摩の土を踏ませないという
独立自尊の態度で幕末を巧妙に生き抜き、幕末の二大雄藩といわ
れる競争相手の長州を二度も敗北に追い込んでいます。
蛤御門の変に敗北した長州藩に対し、第1次長州征伐が元治元
年(1864年)8月2日に布告されています。3日後の8月5
日に米英仏蘭の連合軍が下関を攻撃し、長州藩は壊滅的打撃を受
けたのです。
このとき、米英仏蘭の4ヶ国は長州藩を砲撃することを事前に
幕府に伝えており、幕府軍としては米英仏蘭の連合軍が徹底的に
叩いた後で戦争を仕掛ければ長州藩を完全に制圧できると考えて
いたのです。このように幕末の国内戦争には外国軍が何らかのか
たちで、一枚絡んでいたのです。
とにかく幕府軍が来る前に米英仏蘭の連合軍と休戦協定を結ぶ
必要がある──そこで、こういう外国との交渉に強い人材をかき
集めたのです。そのとき入獄させられていた高杉晋作、それに英
国から急遽帰国させられた伊藤博文と井上聞多が起用され、高杉
・伊藤・井上の3人が機略縦横の策略で、なんとか戦後処理は穏
便に収めたのです。このとき、外国との交渉において英国と長州
藩のパイプができたのです。
しかし、この長州という藩は、伝統的に若者の政治活動に寛容
なところがあり、既に攘夷が藩レベルで統一──つまり、国是と
なっていたのです。そのため、高杉・伊藤・井上の三人は売国奴
の罵りを浴び、功労者であるのに、藩士全員を敵に回して追われ
る身になってしまったのです。
こういう長州藩の混乱を見て、第1次征長軍の参謀役の西郷隆
盛は、長州人によって長州を始末させる政策を取り、休戦させる
ことに重点を置き、先のことを考えて長州を救ったのです。
そこで西郷は、毛利家の分家である吉川家の城下の岩国に乗り
込み、吉川経幹(つねもと)を相手に、長州藩の降伏謝罪の条件
を協議したのです。その条件は次の5つです。
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1. 藩主親子の蟄居
2.五卿の他領への移座
3. 家老3人の切腹
4. 軍の参謀の斬首
5. 山口城の破却
―――――――――――――――――――――――――――――
西郷は吉川経幹に、これを承知すれば征長軍は撤退し、藩士父
子に対するその後の処置が厳格にならぬよう自分が工作するとい
う約束をしたのです。
長州藩はこの条件を受け入れます。もし、幕府の大軍に攻め込
まれれば、ひとたまりもない長州藩としては、非常に甘い条件で
あったからです。
講和が実行され、征長軍が撤退、解散されると、果たせるかな
幕府の内部には、長州の措置が寛大すぎるとして、非難がわきお
こったのです。それとは逆に、長州藩幹部の間では、西郷隆盛と
薩摩藩に対する信頼と期待が生じたのです。
さて、文久3年8月18日の政変で京都から追い出された七卿
(1人が脱走し1人は病死で五卿)は、講和条件にしたがって、
筑前(福岡県)の大宰府に移るのです。この五卿のうち、三条実
美には土佐の中岡慎太郎が付いていたのです。
こういういきさつから薩摩と長州の仲は少し前進し、やがて薩
長同盟にいたるのです。 ―─ [新視点からの龍馬論/22]
≪画像および関連情報≫
●伊藤博文と井上聞多/長州藩/いり豆 歴史談義ブログ
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幕末、長州藩は極秘のうちに、5名の留学生をイギリスに送
っていました。尊攘派の勢いが、最も強かった時期。文久3
年のことです。この留学生派遣を企画したのは、松下村塾系
の家老、周布政之助。そして、桂小五郎・久坂玄端でした。
彼らは、攘夷を主張していた中心人物であるにもかかわらず
一方では、西洋の進んだ近代文明を取り入れて、列国に対抗
できる力を持つことが必要である、という認識を持っていま
した。そして、この留学生の中には、井上聞多(後の外務大
臣・馨)と伊藤俊輔(後の総理大臣・博文)の2人も入って
いました。井上と伊藤は、落ちこぼれの放蕩書生という感じ
で、周布の求める留学生候補には、全く入っていなかったの
ですが、井上聞多が、どこからか、この話を聞きつけて、半
分、周布を脅すようにして、強引に留学生にもぐり込んだの
でした。
http://plaza.rakuten.co.jp/gundayuu/diary/200706160000/
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伊藤 博文と井上 聞多
大変勉強させてもらいました。
ちょうど、西郷の「長州人の始末は長州人につけさせればよか」という言葉がいつ西郷の口から発せられたのかというのが気になり調べていました。
司馬遼太郎の「世に棲む日日」でも、この第一次長州征伐のタイミングで発してますが、そうすると、俗論派による正義派の粛正のきっかけになり、結果俗論派により、長州藩が佐幕化することになりました。
ここで、高杉晋作のクーデーターが無かったら長州は幕府に恭順したままで終わってしまうことになります。
なので、正義派の晋作によって、再び倒幕に統一された長州藩が西郷(薩摩藩)に感謝するというのもつじつまがあわなくなるような気がします。
(俗論派のままなら感謝するでしょうけど)
因みに私が見た、長編ドラマ「奇兵隊」では、第2次長州征伐の前に西郷がこの言葉を発しています。
これだと長州征伐に参加しない薩摩の言い分として、非常にスムーズに受け入れられますし、長州が薩摩に恩を感じるのも納得します。
この第一次長州征伐の前に西郷が言ったというのは、これは根拠ある事実なのでしょうか?
ぶしつけな、質問ですみません。