22日のことです。勝海舟は海軍操練所に赴任するさい、神戸へ
の土着を命じられていたので、江戸に召喚されるということは、
軍艦奉行の職を解かれる以外にはなかったのです。だからこそ海
軍塾の龍馬を始めとする土佐藩出身の若者を預かってくれと西郷
に依頼したのです。
命を受けた海舟は、10月23日に大坂に出ると、25日には
伏見から早駕籠で江戸に下ったのです。海路ではなく、陸路での
帰府です。11月2日に江戸に着いた海舟は、10日にお役御免
を申し渡され、無役の寄合旗本にされたのです。そして翌慶応元
年(1865年)3月12日、幕府は正式に海軍操練所の廃止を
布告したのです。
身の危険を感じた土佐藩出身者は操練所から姿を消し、大阪の
薩摩藩邸に入ったのです。龍馬を筆頭に近藤長次郎、新宮馬之助
高松太郎、千屋寅之助(菅野覚兵衛)、沢村惣之丞、白峰俊馬、
睦奥宗光ら30人です。
西郷は勝との約束を守ったのです。しかし、土佐藩出身者は脱
藩者であり、いわゆるお尋ね者なのです。これが土佐藩にわかる
と、薩摩藩が彼らを保護するのは、土佐藩に対する敵対行為であ
るとして、糾弾される危険があります。
いかに勝海舟との約束とはいうものの、何のメリットもないの
であれば、そんな危険なことをするはずがないのです。そういう
観点で探っていくと、薩摩藩家老の小松帯刀が大久保利通に送っ
たとされる次の書簡があるのです。
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小松書簡の日付は元治元年11月26日である。これは『大久
保利通関係文書』に収録されている。小松の書簡に、龍馬が塾
の土佐人共用の船を手に入れようとして奔走していることが書
かれ、それについては小松帯刀も西郷隆盛も知っていると書か
れている。龍馬は、塾の所有の船ではなく、塾の土佐人共用の
船を人手しようとしているのである。もしも龍馬の奔走が実現
すると、塾の土佐人共用の船──操練所の所有でも塾の所有で
もないというものが出現し、土佐人はこの船を操縦して海運事
業をおこなう事態になるわけだ。 ──高野澄著
『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
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いうまでもなく、いかに雄藩といえども、この時代は幕府に関
係なく外国と交易を行うことは禁じられていたのです。幕府が開
国をなぜ恐れたかというと、それを契機にして諸藩が外国と貿易
を行うことによって、その「財力」や「兵力」が拡大することを
強く恐れていたのです。
しかし、有力な藩であれば、藩船を何隻も持つところは増えて
いたのです。そういう時代に、藩にもどこにも帰属しない船──
脱藩した土佐人共用の船ならそれに該当──が手に入るとしたら
これを利用していろいろな海運事業ができるのです。小松帯刀は
この計画は面白いと考えたのです。
しかし、龍馬たちによるこの船舶購入は失敗したのです。ほと
んどそれと同時に海舟の罷免と操練所の閉鎖が行われたのです。
そうなると龍馬たちは、危険から身を避けて薩摩藩の庇護を受け
るだけの存在になります。
しかし、航海技術を持つ人材は限られており、そういう意味で
土佐藩脱藩者の30人は貴重な存在であるといえます。薩摩の手
によって船舶を手に入れ、龍馬に実務をすべて任せる方法もある
のです。いずれにせよ、龍馬たちを薩摩藩として受け入れること
は十分メリットがあると小松は考えたのです。
慶応元年4月下旬のことです。薩摩藩預かりの土佐藩メンバー
は、薩摩藩船・胡蝶丸で鹿児島に向かっていたのです。この船に
は西郷隆盛と家老の小松帯刀も乗っていたのです。ちょうどその
とき、幕府は確たる見通しもないのに第2次長州征伐に踏み切っ
たのです。
慶応元年5月、小松帯刀は汽船を購入するため、長崎に向かっ
たのです。そのとき、坂本龍馬は、塾生たちを小松と一緒に長崎
に同道させています。リーダーは近藤長次郎です。このとき、龍
馬は薩摩藩と連携して、次の2つの計画を考えていたのです。
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1.長崎を拠点として海運・貿易の事業を興す計画
2.薩摩と長州を和解させて同盟を樹立させる計画
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長崎に着いた塾生たちは、市外伊良林の亀山というところに落
ち着いたのです。亀山というのは、長崎の港と市街が一望できる
眺めの良い丘の上にあったのです。塾生たちはここを本拠地とし
て活動を開始します。しかし、幕府の直轄の開港場である長崎で
は、薩摩藩預かりの浪士という身分の彼らは、それぞれ変名を使
わざるを得なかったのです。
薩摩藩は、そういう龍馬たちに毎月一人当たり3両2分を手当
として支給したのです。月3両2分といえば、相当の高給であり
お茶屋や料亭などで飲み食いもできるほどの金額です。大河ドラ
マでも飲み会のシーンが多く出てきましたが、彼らにとってそれ
は支払えるレベルの遊びであったのです。
しかし、社中を作るには相当の資金がいるのです。問題のこの
資金はどこから出たかです。そのとき長崎には勝海舟と旧知の小
曾根乾堂という豪商がおり、資金はその小曾根乾堂から出された
といわれています。上記の1の計画はこの亀山社中の設立によっ
て達成されたのです。
2の計画──いわゆる薩長同盟の成立です。この実現のため、
龍馬は一人で大宰府に向かったのです。そこには中岡慎太郎がい
たからです。薩長同盟──犬猿の間柄の同藩をどのようにして同
盟させるか。容易なことでは実現できない。しかし、龍馬にはそ
れを実現させる秘策があったのです。そのための亀山社中設立で
もあったのです。 ―─ [新視点からの龍馬論/21]
≪画像および関連情報≫
●小松帯刀とは何者か
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天保6年(1835年)、薩摩国鹿児島城下の喜入屋敷にて
喜入領主・肝付兼善の三男として生まれる。長崎で西洋水雷
などを研究した後の文久元年(1861年)、島津久光に才
能を見出されて側近となり、大久保利通と共に藩政改革に取
り組んだ。文久2年には久光による上洛に随行し、帰国後は
家老職に就任した。薩英戦争では、研究した水雷を鹿児島湾
に配置するなど尽力する。 ──ウィキペディア
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小松 帯刀/薩摩藩家老