ですが、二人の話に衝撃を受けたのです。龍馬から大政奉還の話
を聞き、勝からは雄藩連合政権の樹立という具体的な国家構想を
聞いたからです。
当時西郷は薩摩一国の利益を考えていたので、勝海舟の大胆な
国家構想を聞き、目を開かされたのです。幕府に大政奉還を迫り
幕府がこれに反対すると、薩摩藩は独自に国力を蓄えて「割拠」
し、他の雄藩もそれぞれ割拠することによって連合して幕府に対
抗する──驚くべき構想です。
西郷隆盛は、海舟と会った後の元治元年9月16日付の大久利
通への書状にその驚きを次のように書いています。これは勝海舟
に対する最大級の賛辞といえます。
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勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候人物にて・・
・・学問と見識においては、佐久間(象山)抜群の事に御座候
えども現時に臨み候ては勝先生と、ひどくほ(惚)れ申し候。
──菊地明著『追跡!坂本龍馬/旅立ちから暗殺まで
の足どりを徹底検証』/PHP研究所刊
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突然の勝海舟の江戸召喚──この直後に海舟は海軍塾の土佐藩
出身者を引き取って欲しいと西郷に依頼しており、西郷はこれを
受け入れています。これについては、西郷としては、単に勝の申
し入れだけで了承したのではなく、龍馬に会ったときに聞いた彼
の提案に興味を感じたからです。これについては改めて述べるこ
とにします。
ここで、薩摩藩において西郷隆盛がどういう人物であったかに
ついて簡単に述べておくことにします。西郷ほど期待されたり、
嫌われたりした人間はいないからです。
ちょうど馬関戦争当時、薩摩藩政の主導権を握りつつあったの
は、西郷隆盛を筆頭にした次の4人です。
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1.大久保一蔵(利道) ・・ 36歳
2.小松 帯刀 ・・ 31歳
3.五代 才助(友厚) ・・ 32歳
4.松木 弘安(寺島宗則)・・ 33歳
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このとき、西郷隆盛は39歳であり、やや遅咲きの感がありま
すが、彼ほど薩摩藩に翻弄された人物も珍しいのです。
身分の低い藩士の家に生まれた西郷に目をつけ、取り立てたの
は、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(なりあきら)です。斉彬は
西郷を自分の手元に置き、江戸に同行させ、多くの人物に会わせ
たり、書物を読むように勧めたのです。その能力を見込んで、一
種の英才教育を施したのです。
しかし、西郷自身がその期待に応える前に斉彬は急死してしま
うのです。ちょうど安政の大獄が始まる寸前のことです。日米通
商条約の違勅調印問題や将軍後継問題で日本が大揺れになってい
たときであり、その急死には毒殺説が根強く囁かれています。
毒殺説は薩摩藩の御家騒動も絡んでいるのです。斉彬の父であ
る斉興には由良という妾がいたのです。これが久光の母親なので
す。由良は何とかして久光を島津家の跡取りにしようとし、いろ
いろな工作をはじめたのです。そのため、藩内には「斉彬派」と
「久光派」という2つの派閥ができ、深刻な御家騒動に発展した
のです。結局、斉彬の死後、薩摩藩主には久光の子の忠義が就く
ことで騒ぎは一応おさまったのです。
しかし、斉彬の死は西郷を落胆の淵に沈めたのです。そのため
幕吏に追われていた京都の僧侶、月照とともに入水自殺を図るの
です。このとき西郷が死んでいれば幕末は相当違ったものになっ
たはずですが、月照だけが死に、西郷は助かったのです。
藩主の父の久光としては、斉彬に心服していた西郷は煙たい存
在であり、西郷を奄美大島(沖永良部島)に流してしまったので
す。西郷が島流しになったことは広く知られていますが、2回流
されていることを知る人は少ないと思います。
奄美大島に流されたのはその第1回目です。西郷は犯罪人とし
て奄美大島に送られたのではないので、島では比較的自由に暮ら
しています。島の娘と結婚して、子供も生まれているのです。
西郷が大久保一蔵の奔走によって鹿児島に戻ってきたのは、文
久2年(1862年)のことです。しかし、久光は西郷を本当の
意味で許したのではなく、西郷が志士たちの間で人気があるので
その人気を利用して志士たちの説得役で使おうとしたのです。
当時尊攘派の志士たちは、久光と一緒に京都に上がってきた薩
摩藩兵に合流して一気に倒幕挙兵をしようと考えていたのです。
しかし、久光としては倒幕する気などはないので、彼らを西郷を
使って説得させようとしたのです。
しかし、西郷は志士たちの話をじっくりと聴くだけで、とくに
説得しているフシがない。久光はあいつは俺の命令を無視してい
るのではないかと腹を立て、鹿児島へ帰藩を命じ、今度は犯罪人
として、喜界ヶ島に流してしまったのです。奄美大島から戻され
てわずか4ヵ月後のことです。これが第2回目の島流しです。
西郷は喜界ヶ島では檻の中に入れられた生活だったのです。島
の役人が気の毒がって、外に出てもいいといったのですが、西郷
は出ようとしなかったのです。
西郷が許されたのは、それから一年半ばかり経過した元治元年
(1864年)のことです。長い牢獄生活で西郷は歩くことがで
きず、港から家まで駕籠を使ったといわれます。
そこで西郷は斉彬の墓参りをし、3月はじめには鹿児島を発っ
て京都に向かったのです。久光は京都に着いた西郷に後事を託し
て鹿児島に戻っています。かくて京都の薩摩藩士は西郷の掌握下
に入り、その後の池田屋事件、それに続く蛤御門の変が起きるの
ですが、その処理が見事だったとしてはじめて西郷は久光に褒め
られたのです。 ―─ [新視点からの龍馬論/20]
≪画像および関連情報≫
●鬼界ヶ島について
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鬼界ヶ島(きかいがしま)とは、1177年(治承元年)の
鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされ
た島。薩摩国に属す。『平家物語』によると、島の様子は次
の通りである。舟はめったに通わず、人も希である。住民は
色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女
は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もな
い。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄が
たくさんあるので、この島を硫黄島ともいう。
──ウィキペディア
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喜界ヶ島での西郷 隆盛