といえるのです。元治元年(1864年)5月にスタートし、そ
の直後の6月5日に京都で池田屋事件が起こったからです。
このとき龍馬は、大阪から幕艦・黒竜丸で江戸に向かっていた
のです。船内には尊攘過激派の浪士が200人ほど乗っていたの
です。彼らは龍馬から蝦夷地の開拓を説得され、その気になった
若者たちです。
海軍操練所にはそうした尊攘過激派の浪士がたくさんおり、そ
のエネルギーを蝦夷地開拓に振り向けようという龍馬のアイデア
が実現したもので、幕府の了解を得て資金も集めていたのです。
しかし、歴史書ではそうなっているものの、蝦夷地開拓は龍馬
の苦肉の策であったと思われるのです。海軍操練所と海軍塾の人
数は最終的には400人ぐらいには達しているのですが、スター
ト当初はせいぜい200人を少し超える程度であり、そのほとん
どを蝦夷地開拓に投入したことになるからです。そうだとすると
神戸の海軍操練所はガラガラになってしまいます。
実は海軍操練所の講義はほとんど英語で行われていたのです。
何しろ当時日本には操船術や海外公法などの本はなく、すべて英
語で書かれたものを読まざるを得なかったので、講義も英語で行
われたのです。しかも教科書の中身は難解で、高等数学も使うの
で、ついていけない者が大勢いたはずなのです。
したがって、龍馬たちは、そのようにして余った人材の活用に
困ったのです。しかし、せっかく集まった人材を散らしたくない
という思いで、苦肉の策で蝦夷地開拓にそれらの人材を当てると
いうことになったのではないかと思います。
しかし、龍馬が留守をしていた海軍塾から土佐藩の望月亀弥太
が抜け出し、池田屋の謀議に参加していたのです。そして、望月
は斬り込んできた新選組によって闘死してしまったのです。望月
は土佐勤王党に属し、文久2年には藩主を護衛する50人組の一
人として江戸にのぼり、次の年に龍馬の紹介によって勝海舟の門
人なっているのです。
これによって、勝海舟の率いる海軍操練所と海軍塾は、尊攘過
激派の巣窟ではないかという噂が立てられたのです。既に幕府の
隠密は海軍操練所と海軍塾にそういう尊攘派が多いことを掴んで
いたのです。勝海舟や龍馬は、とっくに藩というエリアを超えて
おり、尊攘派であろうが、脱藩者であろうが、新しい日本を創る
ために何かをしたいと考える若者はすべて海軍操練所や海軍塾に
受け入れたのです。しかし、当時そのように考えて行動を起こす
人間はあまりいなかったのです。
元治元年10月21日のことです。勝海舟は江戸に召喚され、
11月11日付で軍艦奉行を罷免されたのです。海軍奉行という
のは2000石の大身であり、重職なのです。そういう職にある
者が尊攘派巣窟の主であることは許されないというわけです。そ
して当然のことながら、神戸の海軍操練所は閉鎖され、海軍塾も
立ち消えになってしまったのです。もちろん蝦夷地開拓も中止さ
れています。
しかし、幸いだったことに元治元年5月の海軍操練所と海軍塾
のスタートから勝が罷免されるまで、約6ヶ月ほどの時間があっ
たのです。勝海舟は周辺の情勢から海軍操練所と海軍塾の運命を
悟っており、龍馬をはじめとする一握りの優秀な人材だけは何と
してもを守らなければならないと考えたのです。
彼らさえ残っていれば、それが種子となって必ず復元されるこ
とを見抜いていたのです。大きな時代の流れは誰も止めることは
できず、やがて新しい時代が来ると信じていたのです。
勝海舟は薩摩の西郷隆盛に託すしかないと考えたのです。勝は
西郷隆盛の人物や考え方については人を通じてよく知っていたの
ですが、会ったことはなかったのです。ところが西郷の方も勝に
会うことを望んでいたのです。
西郷は長州征伐軍の総司令官になることが決まっていたのです
が、肝心の幕府首脳が躊躇しているのを見て、幕府躊躇の真相を
聞きたいと思っていたのです。そこで、幕府首脳の中では才人と
の評判の高い勝海舟に会ってみたいと思ったのです。
しかし、海軍操練所と海軍塾の今後のことを考えて、勝は龍馬
を先に西郷に会わせることにしたのです。そしてその人物を見た
いと考えたのです。そういうわけで、勝の紹介状を持った龍馬は
勝と会っています。しかし、それがいつであったか史料にははっ
きり載っていないのです。おそらく元治元年8月半ばのことであ
り、場所は京都の薩摩藩邸であったと思われます。西郷隆盛と会
った後の龍馬の西郷の印象は次のようなもであったのです。
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西郷は、わからぬやつだ。すこし叩けばすこしく響く。おおき
く叩けばおおきく響く ──坂本龍馬
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要するに、馬鹿か利口かわからないが、いずれにせよ大きな人
物であることは間違いないということです。この龍馬の感想を聞
いて、勝海舟は西郷隆盛と会うことを決断します。元治元年9月
11日、場所は大阪です。
このとき、勝海舟は幕府のことを「姦人の巣窟」と表現し、そ
の改革が無理であることを西郷に告げています。それに対して西
郷は「姦人どもを退治する手はないのか」と尋ねたのですが、勝
は「ない」と即答しています。そして、次のような破天荒で明確
な政策を西郷に提示したのです。
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外国人は幕府の官吏を軽侮しておりますから、対等な交渉は不
可能です。明賢の諸侯が四人五人とあつまって会盟し、外国船
を打ち破れるだけの軍事力を掌握し、そのうえで兵庫を開港す
る。こうしなければ皇国の恥となるばかり。 ──高野澄著
『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
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――─ [新視点からの龍馬論/19]
≪画像および関連情報≫
●「勝海舟」について
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勝海舟。幕臣として江戸無血開城の任を果たし、明治維新後
は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍した人です。後に福
沢諭吉は、勝のことを「両親が病気で死のうとしているとき
もうダメだと思っても看護の限りを尽くすのが子というもの
であり、それが節義ではないか」と、幕府の人間でありなが
ら幕府を見捨ててしまった勝を、強く批判しています。しか
し勝には、幕府だとか官軍だとかにこだわった視野の狭い考
えはありませんでした。新しい時代の必要を感じ、日本国と
いう立場に立って、倒幕のシナリオを描いたのです。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kaishu.htm
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勝 海舟