2010年10月28日

●「蛤御門の変と外国連合軍の砲撃」(EJ第2927号)

 池田屋事件は長州藩を憤激させたのです。こうなっては武力で
公武合体派を追放し、朝廷の態度を変更させる必要がある──こ
ういう意見が長州藩内部で高まったのです。
 元治1年(1864年)6月下旬に、長州藩の3家老──益田
右衛門介、国司信濃、福原越後が兵を率いて東上し、これに真木
和泉、久坂玄瑞、来島又兵衛らも遊軍諸隊を率いて上京、京都郊
外の嵯峨、山崎、伏見の三方面に布陣したのです。
 これに対して朝廷・幕府の連合軍側は、会津、桑名、薩摩ほか
の諸藩に命じて洛中洛外および禁裏の警備に当ったのです。幕府
側と長州側では、何回か折衝が行われたのですが、20日間を経
てもまとまらなかったのです。
 元治1年7月19日、遂に戦端が開かれたのです。この戦闘の
ことを「蛤御門の変」(禁門の変)といいますが、蛤門だけで戦
闘が行われたのではなく、蛤門を含む九門すべてで激しく戦闘が
行われたのです。長州勢としては、何としても御所の中に入りた
かったので、攻勢を強めたのですが、圧倒的な幕府軍や諸藩兵の
前にどうしても突破できず、長州側はわずか1日の攻防で敗退を
余儀なくされたのです。しかし、戦闘は1日でも京都市中は3日
3晩戦火で燃え続け、焼け野原になったのです。焼失民家2万8
千余戸、罹災者は加茂川原にあふれたのです。
 実はこの戦争で薩摩藩兵の指揮をとっていたのは、あの西郷隆
盛だったのです。西郷は島津久光に嫌われて沖永良部島に流され
ていたのですが、大久保利通らの尽力によって藩政に復帰してい
たのです。激動する政局には西郷が必要だとして久光を説得し、
藩政復帰が実現したのです。
 西郷はこのとき見事な采配を振るい、長州勢を一人も門の中に
入れなかったのです。蛤門はもちろんのこと、幕府側が苦戦した
堺町門では会津、桑名両軍を助けて、西郷自身も足に負傷してい
るのです。そのため、長州勢の中に西郷隆盛の名前は深く浸透し
たといわれます。
 しかし、長州藩の中にも2つの派があったのです。1つは、武
力に訴えて、実力で入京して天皇を奪取しようとする急進派と時
期を待つべしとする慎重派です。前者は来島又兵衛や久坂玄瑞ら
であり、後者は桂小五郎や高杉晋作たちです。ところが、急進派
は蛤御門の変でほとんどが斃れており、慎重派の意見が強くなり
つつあったのです。
 長州藩は蛤御門の変での敗退によって朝敵の汚名を着せられ、
藩内は統制の取れない混乱に陥ったのです。元治1年8月5日、
京都からの敗残兵が尾羽打ち枯らして長州に逃げ帰った直後のこ
とですが、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの連合軍が
17隻の艦隊を組んで長州を攻撃したのです。
 これについて、中津文彦著の『闇の龍馬』は、次のように書い
ています。長州藩にとっては、まさに泣き面にハチです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この戦いも長州の一方的な敗北に終わった。新式装備の各国の
 軍艦の前に長州藩の砲台はすべて半日足らずで沈黙させられ、
 続いて二千名を越える陸戦隊が上陸し、徹底的な破壊が行なわ
 れた。このときの四カ国による長州攻撃は、事前に幕府にも通
 報されたが、幕府としてはただ傍観するだけだった。いや、密
 かに長州が叩きのめされることを期待していたきらいもある。
 なぜなら、すでにこのとき幕府は、禁門の変の責任を追及する
 ための長州征討の方針を決めていたからである。これを好機と
 して反幕の牙城である長州を潰してしまおうという思惑があっ
 た。禁門の変の後、長州追討の朝議決定を受けて、幕府は西国
 を中心とした21藩に対して征伐軍への出兵を命じた。
          ──中津文彦著、『闇の龍馬』/光文社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 8・18の政変と蛤御門の変が起き、土佐の山内容堂は動き出
したのです。長州藩が敗れたことによって、尊攘派の勢力が弱体
化し、これを機会に土佐勤王党を潰しにかかったのです。
 既に容堂は文久3年5月に勤王党の解散を命じており、青蓮院
令旨事件を起こした間崎哲馬ら3人は切腹を命じられているので
す。文久3年9月21日、土佐藩庁から土佐勤王党党員に出頭命
令が出たのです。これは、捕縛と投獄を意味していたのです。
 武市瑞山は、帯屋町の南会所の獄舎につながれ、勤王党の主要
メンバーも投獄されたのです。身の危険を感じた勤王党員は相次
いで姿を消し、脱藩したのです。それらの脱藩者の多くは長州に
逃れていますが、その中には中岡慎太郎もいたのです。
 藩主の豊範は、武市瑞山の赦免を願ったが、容堂は耳を貸さな
かったのです。しかし、既に上士になっていた武市については、
獄中生活は比較的自由であったというのです。外部との連絡も許
されていたようです。
 しかし、岡田以蔵が逮捕され、詮議が始まると、武市瑞山への
取り調べも厳しくなったのです。取り調べに当ったのは、いずれ
も吉田東洋を師と仰いだ後藤象二郎や板垣退助なのです。
 やがて岡田以蔵はすべてを告白して処刑され、武市瑞山は慶応
元年(1865年)5月に切腹を命ぜられたのです。享年37歳
であったのです。
 土佐藩の脱藩者は海軍操練所にも多数入所しており、龍馬らは
そういう脱藩者を幅広く受け入れているのです。文久3年の暮れ
には、一度脱藩が許された龍馬にも江戸の土佐藩吏から召喚状が
きたのですが、海舟は修行延長を求めたものの、拒絶され、龍馬
は再び脱藩するのです。もちろん、新宮馬之助、近藤長次郎、千
屋寅之助、高松太郎らも藩の帰還命令を無視したのです。
 また、池田屋事件への関与者にも土佐藩の脱藩者はおり、そう
いうことが、勝海舟自身の失脚と海軍操練所の廃止につながって
くるのです。幕府の密偵は海軍操練所のそういう状況を掴んでお
り、勝としては、そういうことも考えて周到な手を事前に打って
いたのです。       ――─ [新視点からの龍馬論/18]


≪画像および関連情報≫
 ●「蛤御門」の名称の由来
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  「禁門」とは「禁裏の御門」の漢名である。蛤御門の名前の
  由来は、1788年の天明の大火の際、それまで閉じられて
  いた門が初めて開放されたので、焼けて口を開ける蛤に例え
  られたためである。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し
  天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていた。禁門の変が蛤
  御門の変とも呼ばれるのは、蛤御門付近が激戦区であったた
  めである。そのため今も門の梁には弾痕が残る。
                    ──ウィキペディア
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西郷隆盛/岡田以蔵.jpg
西郷隆盛/岡田以蔵
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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