2010年10月27日

●「九門締め出しと七卿落ち」(EJ第2926号)

 結果として幕府による攘夷の実行が開国を進める道につながっ
たのです。それは、EJ第2915号で述べた薩英戦争と馬関戦
争(下関事件)です。この2つの戦争の結果、外国艦隊の威力を
まざまざと見せつけられたからです。
 頭の切り替えが早かったのは薩摩藩の方だったのです。外国船
を打ち払うにはあまりにも犠牲が大きく、そうした無益な対応よ
りも、きちんとした付き合いをすべきではないかという論議が高
まったのです。きわめて冷静な判断であるといえます。
 そこで、薩摩藩は英国に賠償金を支払うことで、関係を修復さ
せることにしたのです。これによって薩摩と英国は一転して親密
な関係を築くことになり、それが維新革命に大きく作用すること
になります。
 しかし、長州藩の場合は、馬関戦争で大敗したにもかかわらず
尊皇攘夷派の結束はかえって固くなったのです。京都では尊攘急
進派が宮廷内の尊攘派公卿と結びついて勢力を握り、政局の主導
権を握っていたのです。
 文久3年(1863年)8月13日、天皇を手中にした尊攘派
は、真木和泉や久坂玄瑞らが「攘夷親征」を朝廷に説得し、次の
布告をしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 主上(孝明天皇)が攘夷祈願のため大和へ行幸し、神武天皇陵
 を拝して親征の軍議を行い、ついで伊勢神宮に参拝する。
                      ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 「攘夷親征」というのは、天皇自ら夷狄(いてき)を征伐する
ことを意味しています。しかし、孝明天皇は、攘夷の意思は強く
ても親征には反対であり、あくまで攘夷は幕府を主体にして行う
考え方だったのです。
 密かに孝明天皇の内旨を受けた中川宮(前青蓮院宮)は、公武
合体派の公卿や大名と組んで、尊攘派を京都から一掃するクーデ
ターを計画するのです。大名では京都守護職の松平容保と島津久
光が連携し、武力行使の面を担当することになったのです。
 そしてさのクーデターは8月18日午前1時に実行に移された
のです。まず、皇居内には中川宮をはじめ、守護職松平容保、京
都所司代稲葉正邦が入り、その後、武装した会津・淀の両藩兵が
入りました。薩摩藩兵は、近衛忠煕の参内を警護して、禁裏の九
門内に入りました。
 午前4時、九門警護配置完了を知らせる砲声と同時に、非番の
尊攘派公卿の参内が拒絶されたのです。長州藩士は九門の外へ完
全に締め出されたのです。三条河原町の藩邸にいた長州藩士が、
九門に駆けつけましたが、どうすることもできませんでした。長
州藩の家老真木和泉も、三条実美邸に駆けつけのですが、こちら
も何もできなかったのです。
 御所の「九門」とは何でしょうか。
 御所は天皇、宮家、公家の居住地。天皇の居住地である禁裏あ
るいは内裏(内構六門内)と宮家・公家の居住地である築地(外
構九門内)に分かれています。ここでいう「九門」とは、外構九
門のことをいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     1.今出川門       6.下立売門
     2.石薬師門       7.  蛤門
     3.清和院門       8.中立売門
     4. 寺町門       9.  乾門
     5. 堺町門
―――――――――――――――――――――――――――――
 8月18日夕刻、尊攘派の公卿三条実美や長州藩士ら2600
人は、京都郊外の妙法院に集結し、今後の策について話し合った
のです。その結果、いったんは長州に退いて、再起を図ることに
なったのです。
 19日午前3時、三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基
修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉の公卿(七卿)は、やむなく
長州に西下することにしました。これを「七卿落ち」というので
す。この結果、京都は公武合体派が主導権を握ることになったの
です。このクーデターのことを「8・18の変」といいます。
 しかし、こんなことであきらめるような尊皇攘夷派ではなかっ
たのです。8・18の変の後も一部の勢力は京都に残り、密かに
巻き返しを狙っていたのです。
 元治1年(1864年)6月5日夜、京都三条河原町の旅館・
池田屋に長州の桂小五郎、肥後の宮部鼎蔵ら30人ほどの尊攘派
の志士が密かに会合を持っていたのです。会合の目的は、三条木
屋町の馬具商・枡屋喜右衛門が新選組に逮捕されてしまったこと
についての善後策の相談です。
 実は枡屋喜右衛門は借りの名で、古高俊太郎という尊攘派志士
の一人であり、ここにはいつも尊攘派志士が多く集まっていたの
です。そのため新選組から早くから目を付けられていたのです。
古高俊太郎は新選組の拷問に耐え切れず、重大な秘密を吐いてし
まったのです。その秘密とは驚くべきものだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 来る20日前後、風の烈しい夜を選んで御所の風上から火を放
 ち、禁裏の四方を火で包み、中川宮邸にも放火し、驚いて参内
 する守護職の松平容保を襲って血祭りに上げ、その混乱に乗じ
 て天皇を長州に奪い去る。         ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 その夜は祇園祭の宵宮でしたが、そこに近藤勇をはじめとする
10人の新選組が斬り込んだのです。不意を突かれた志士7人が
殺され、23人が生け捕りにされたのです。しかし、桂小五郎は
危ふく逃れています。これが世にいう「池田屋事件」なのです。
             ――─ [新視点からの龍馬論/17]


≪画像および関連情報≫
 ●池田屋事件の異説
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  池田屋事件は、尊皇派の陰謀で捏造されたとする説もある。
  「京都大火計画」「松平容保暗殺」「天皇拉致」などの尊攘
  派の陰謀は幕府側の記述にはあるものの尊攘派側の記録には
  一切なく、『木戸孝允日記』にもこのときの池田屋で計画さ
  れていたのは新選組に拉致監禁され拷問されている仲間(古
  高俊太郎)を救うための会合としか記されていない。証拠と
  言えるものは土方に壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させら
  れた古高が語ったとされる発言のみで、その古高も早々に処
  刑されており、客観的な証拠が乏しく尊攘派の威信失墜や新
  選組の威信高揚を狙った捏造もしくは瑣末な話を大袈裟に誇
  張した可能性がある。         ──ウィキペディア
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池田屋(東映セット).jpg
池田屋(東映セット)
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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