行に移します。下田から京都に戻った容堂は、京都に行く島村寿
之助、望月清平に命じ、坂本龍馬を京都の土佐藩邸に呼び、自首
の形をとって一定期間藩邸にて謹慎のうえ赦免させるよう指示し
たのです。
文久3年(1863年)2月22日、島村、望月両名は江戸か
ら龍馬を伴って上京し、河原町の藩邸に自首させたのです。そし
て3日間の謹慎のうえで25日に正式に赦免を言い渡しているの
ます。そのうえで7日間の禁足を命じています。
そのとき、無理やり江戸から京都に連行された龍馬は、島村、
望月両名に対し、恨みがましく愚痴を述べたというのです。
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足下(そっか)等がよしなく呼び戻して、この龍馬にかく窮屈
させるぞ。 ──『維新土佐勤王党史』
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龍馬にとっては、脱藩を許されるよりも海舟のもとで送る日々
のほうが、龍馬には数段重要だったのです。禁足の解けたその日
に龍馬は大阪に下り、海舟のところに戻っています。実際に天下
の情勢は深刻の度合いを一層深めていたからです。
その同じ文久3年2月に将軍家茂は上洛しています。将軍の上
洛は、3代家光のとき以来200数十年ぶりのことなのです。そ
の目的は、勅使に「攘夷実行の期日は自ら上京して申し上げる」
と約束してしまったので、仕方なく上洛したのです。
これに合わせて島津久光も薩摩から上京してきています。その
久光と松平慶永、山内容堂、宇和島藩主の伊達宗城の4人を中心
とする集まりが持たれています。彼らは幕府は朝廷と一体化して
政治・外交を行うべきという公武合体派であったのですが、この
ときは意見の一致は見られず、まもなく帰藩してしまうのです。
一方攘夷の実行を迫る朝廷は、ここにきても抽象論でお茶を濁
そうとする幕府側と将軍家茂を責め立て、その年の5月10日か
ら攘夷を行うという約束を取り付けたのです。
これはメチャクチャな決定です。幕府は米国と条約を結んで開
国しておきながら、今度は朝廷の言いなりになって攘夷を実行す
る──その行動は矛盾に満ちていたからです。
もっとも幕府としては、攘夷の実行の布告に次の条件を付けて
いたのです。まるで現代の日本のようです。
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外国の方から攻撃したときは打ち払え
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しかし、攘夷実行となると、大阪湾周辺の防備はお粗末そのも
のであり、勝海舟は大阪湾の防備を固める必要があることを将軍
家茂に言上し、家茂の湾内視察を申し出て、家茂はそれを了承し
たのです。
勝海舟は、家茂を幕艦の順動丸に乗せて、海防と海軍創設の必
要性を説いたのです。家茂は直ちに海舟の建言を受け入れ、その
場で神戸海軍操練所の創設を命じたのです。
一方龍馬は、海舟の指示を受け、過激な攘夷の旗頭になってい
る姉小路公知に接近し、船に乗せて海防の実態と攘夷の無謀さを
認識してもらおうと視察をさせることに成功しています。そのう
えで、海舟のいる順動丸に案内し、海舟による姉小路公知の説得
を行ったのです。海舟は、日本を守るためには海軍の創設が必要
であることと、外国の力を知らない攘夷論がいかに時代遅れであ
るかを説いたのです。海舟と龍馬は、このように幕府と朝廷の両
方に工作を仕掛けたのです。
これによって、朝廷は海防の重要性を認めて、軍艦と巨大砲の
建造のために、製鉄所などの設置を幕府に命じています。これに
よって、神戸海軍操練所の設立は順調に進んだのです。
勝海舟はもうひとつ重要なことを考えていたのです。それは、
力の衰えた幕府が将来海軍操練所を閉鎖することがあっても、そ
の重要性を知る人材を育てる海舟が主宰する私塾「海軍塾」を作
ろうとしたのです。その後実際に海軍操練所は閉鎖されているの
で、いかに海舟が先のことまで考えていたかがわかります。
問題は資金です。海軍操練所の運営資金は幕府から出ますが、
私塾の資金をどうするかです。海舟はその資金を松平春嶽に頼る
ことにし、それを龍馬に任せたのです。
文久3年5月、龍馬は越前福井藩主松平春嶽に会い、5000
両の資金を春嶽から引き出したのです。このシーンはNHKの大
河ドラマにありましたが、あんなに簡単には5000両もの大金
を借りることはできなかったと思われます。
龍馬は越前福井藩の中田靭負、三岡八郎、横井小楠らの間を奔
走し、資金借用を実現させたのです。実際は借金ではなく、それ
を出資資金とし、海軍塾の学生が操船する船による交易で上がっ
た利益を出資金に応じて配分するという構想がそこにあったので
す。これはまさに株式会社の発想そのものです。この考え方が後
の亀山社中や海援隊として具体化するのです。
こうしているうちの文久3年5月20日、京都で姉小路公知が
暗殺されます。勝海舟などの開国派に接近したというのが理由で
あると思います。その10日前の5月10日、攘夷決行の日に合
わせて、長州藩は下関海峡を通過しようとした米国の商船を砲撃
し、逆に報復攻撃を受けるという事態が発生したのです。
この事態を憂慮した龍馬は、越前福井藩の村田巳三郎、中田靭
負、大阪町奉行の松平信敏らと会い、次のことを訴えています。
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長州などが外国に占領されぬよう、すぐにも外国勢力と談判す
べきだ。そのためにも、幕閣の改造を図らねばならぬ。
──山本 大著
『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
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幸いなことに、外国勢の方が日本の国情を理解して現実的な解
決策を模索していたのです。 ―─ [新視点からの龍馬論/16]
≪画像および関連情報≫
●神戸海軍操練所とは何か
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神戸海軍操練所は、江戸時代の1864年(元治1年1年)
5月に、軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置し
た海軍士官養成機関、海軍工廠である。現在の神戸市中央区
新港町周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑が
ある。幕臣でありながら幕府の瓦解を予見していた勝の元に
は、倒幕派の志士も多く集っていた。この操練所が神戸に出
来て以後、漁村であった神戸は港町としての成長を見せ始め
るようになる。それを見越していた勝は、地元で自分の世話
をしてくれた者に「今のうちに土地を買っておくがいい」と
助言したところ、見事に地価が高騰し、その者は大きな利益
をあげた、というエピソードがある。 ──ウィキペディア
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海軍操練所跡碑