が安定しない混乱の年であったのです。いわゆる「和宮降嫁」が
あり、その付帯条件である「攘夷実行」が幕府に突きつけられた
のもこの年のことなのです。
和宮降嫁は、尊皇派の志士たちの憤激を買い、坂下門外で今度
は老中の安藤信正が襲われるという事件があったのです。しかし
井伊大老のときと違って警備が厳重であったので、襲撃は失敗に
終わったのですが、世の中は騒然となったのです。
このとき動いたのは、薩摩藩の島津久光なのです。といっても
久光は薩摩藩主ではないのです。実は薩摩藩は深刻なお家騒動が
あって、島津久光は藩主になれず、息子の忠義が藩主になってい
たのですが、実質的な政権は久光が握っていたといえます。
島津久光は、兄の斉彬と同様に一橋慶喜を将軍に擁立してこの
難局を乗り切るしかないと考えていたのです。いわゆる公武合体
派と同じ考え方です。
そこで島津久光は、約一千人の藩兵を率いて薩摩を出発し、京
都にやってきたのです。それが文久2年3月のことです。藩主で
もない久光が軍勢を引き連れて上京する──これは多くの人に衝
撃を与えたのです。それほど、幕府の統率力は落ちてしまったの
かという印象が強かったからです。
この薩摩藩の動きに勇気づけられたのは、そのとき京都に集結
しつつあった尊皇攘夷の急進派たちです。彼らはこのさい、薩摩
軍に合流して一気に倒幕の兵をあげるべきだと考えるようになり
そういう若者たちが京都に集結しはじめたのです。
久光は、同行してきた西郷隆盛にそういう急進派の鎮撫工作を
命じたのです。その頃西郷は志士たちの間では人気が出ており、
久光はそれを利用しようとしたのです。
しかし、久光と西郷の波長はかならずしも合っていなかったの
です。西郷の言動には煮え切らないものがあり、急進派と同調し
て挙兵革命に走り出しそうな様子が垣間見えたので、久光は突然
西郷に帰藩を命じ、そのまま喜界ヶ島に流罪人として島流しにし
てしまったのです。それから一年半あまり、西郷にとって失意の
年月が流れることになります。
京都に入った久光は、急進派を鎮圧しなければならないと考え
たのです。そうしないと、自分の幕政改革に懸ける熱意が反故に
なると考えたからです。
ちょうどそんなおり、藩主の幕府擁護の姿勢に不満を持つ薩摩
出身の急進派の浪人たちが、密かに京都・伏見の寺田屋という船
宿に集結し、幕府要人の暗殺を協議しているという情報が久光に
もたらされたのです。
久光は腕の立つ藩士9名に命じ、寺田屋を襲撃させたのです。
この襲撃によって討手側1人、集結していた8名が死亡したので
す。この薩摩者同士の壮絶な斬り合いを見て、攘夷急進派の久光
を挙兵の旗頭に担ごうとする動きは鳴りを潜めたのです。これが
寺田屋事件の概要です。
久光は朝廷に「難局を乗り切るため、一橋慶喜を将軍補佐とし
て任命し、松平慶永を大老とすべし」という勅諚を出すよう働き
かけ、手に入れています。朝廷は、この寺田屋事件によって久光
に対する信望が高まっていたので、これを受け入れたのです。
そして、久光はこの勅諚をもった勅使を警備して江戸に向かっ
たのです。軍隊を連れてきたのはこのためだったのです。
江戸に着いた久光は、朝廷の威光を背景に、幕府に対し、幕政
改革の実行を迫ったのです。そして、一橋慶喜を将軍後見職に、
松平慶永を大老と同格の政事総裁職に就けることに成功したので
す。このとき、久光は得意の絶頂にあったといえます。
しかし、文久2年9月、目的を果たして京都に戻ってきた久光
は愕然とします。世情は4ヶ月前と一変していたのです。尊皇攘
夷論を唱える急進派が猛烈な勢いで増えており、歯止めが効かな
い状態になっていたのです。
暗殺が横行し、幕府方の要人や、和宮の降嫁に加担した公卿な
どが手当たりしだいに殺害されていたのです。もはや事態は久光
の手に負えないものになっていたのです。そう考えると、久光は
藩兵を引き連れて薩摩に戻ったのです。
久光と入れ替わりに京都に出てきたのは、長州藩主の毛利慶親
です。長州藩の場合、高杉晋作らの活発な動きによって、藩全体
が尊皇攘夷で統一されていたのです。あの武知瑞山が希求した一
藩攘夷が長州藩ではできあがっていたのです。
毛利慶親は朝廷に対し、安政の大獄で処刑された者たちを手厚
く葬るよう幕府に勅命を出すよう要請したのです。彼らの名誉回
復を図り、幕府に誤りを認めさせようとしたのです。
しかし、これに薩摩藩は反発を強めたのです。なぜなら、その
中には寺田屋事件で討たれた薩摩浪人も含まれていたからです。
これによって、薩長の間はしだいに溝が深まっていったのです。
その次に京都に出てきたのは土佐藩主の山内豊範です。これに
は武知瑞山が率いる土佐勤王党が護衛に付いてきたのです。土佐
藩の調停工作は、幕府に対して和宮降嫁のさいの条件の「攘夷実
行」を守るよう勅命を出して欲しいと要求したのです。朝廷はい
うがままに勅命を出し続けたのです。
このように、各藩が勝手なことを主張し、それを勅命という形
で持ち込んでくる事態に、幕府は大混乱に陥ったのです。幕府で
は日夜対策会議が行われたのですが、結局は朝廷の力に押しまく
られ、しかるべき対処策を講じて、上京して詳しくご報告すると
いう返事をせざるを得なかったのです。
しかし、幕府としても必死の巻き返し策を講じていたのです。
西洋式の将軍親衛隊を結成したり、陸海軍の制度を充実させる体
制を整えています。さらに京都所司代の上に守護職を設けて、京
都の治安維持を強化する対策も図ったのです。京都守護職には、
会津藩主の松平容保(かたもり)が任命されたのです。松平容保
は孝明天皇の信頼も厚く、その後の激動期に大きな働きをするこ
とになるのです。 ――─ [新視点からの龍馬論/15]
≪画像および関連情報≫
●「京都守護職」とは何か
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京都守護職は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に
置き、見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組も支配
下となった。しかしながら京都所司代・京都町奉行はあまり
役に立たなかった。また、会津藩士のみでは手が回りきらな
かったため、守護職御預かりとして新撰組をその支配下に置
き、治安の維持に当たらせた。後元治元年(1864年)に
は京都所司代に容保の実弟である桑名藩主松平定敬が任命さ
れ、兄弟で京の治安を守る形となる。 ──ウィキペディア
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寺田屋/京都・伏見