年)12月5日のことです。松平春嶽は、当初龍馬と岡崎哲馬を
単なる尊皇攘夷派の若者というイメージで見ていたのですが、2
人は大阪近海の防御策について話し、それが攘夷一辺倒の意見で
はなく、西洋の科学知識を知った上での合理的な提案であったの
で、熱心に聞いたと記録に残されています。春嶽はかねてから勝
海舟から海軍の重要性について聞いており、龍馬らの話はその必
要性を裏付けるものであったので、春嶽の方から勝海舟と横井小
楠に会って直接話を聞いてみてはどうかと持ちかけたのです。
このようにして、龍馬たちは春嶽から勝海舟と横井小楠への紹
介状を手に入れたのですが、春嶽は勝への紹介状の最後に次のよ
うに書き加えたというのです。
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剣客ゆえ、用心するように
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このことが龍馬は勝海舟を斬りに行って、逆に勝に心服させら
れたという話になって伝わっているのです。しかし、龍馬が勝を
斬る理由はなく、もし少しでもそういう恐れがあれば春嶽が紹介
するはずがないのです。したがって、春嶽が「ご用心」と書いた
のは冗談のつもりであったと考えられます。
龍馬は兵庫にいる勝海舟に会うため、直ちに千葉重太郎と一緒
に旅立っています。文久2年12月12日のことです。そして、
12月29日に兵庫の勝海舟の家を重太郎と一緒に訪ねて、勝と
面会を果たしています。
そのとき、勝は龍馬たちに対し、次のように「海軍必要論」を
説いたといいます。
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海舟は龍馬に対し、まず、世界の情勢を説き、日本の開国の必
然性をうち上げた。さらに列強の干渉と植民地化を防ぐために
海軍≠フ必要性をまくしたてた。海舟は、世界の動向を見据
えたうえで、日本の活路を旧体制や観念的な考えにとらわれず
具体的に提示した。それは河田小龍の教えよりもスケールが大
きく、かつ現実に即応するものであった。海舟のいう「海軍必
要論」はたんなる心情的な攘夷憂国論を打ち破る説得力があっ
た。それは外国船を購入し、自国でも造船を興して海運業に力
を注ぎ、それをベースにして海防問題を解決するというもので
ある。 ──山本 大著
『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
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この話を聞いて龍馬は、勝に弟子入りを懇願するのです。薩摩
にしても長州にしても、その基本的な考え方は、鎖国の継続と攘
夷を唱え、天皇親政を錦の御旗にして、幕府を倒すという、しょ
せんは国内の権力闘争に過ぎないものですが、勝海舟の考え方は
そういう権力闘争をはるかに超えていたのです。龍馬は勝のスケ
ールの大きさに圧倒され、弟子入りを懇願したのです。
ここで、近藤長次郎についてふれておく必要があります。NH
Kの大河ドラマでは、大泉洋が演じていた近藤長次郎です。ドラ
マでは、近藤は既に勝海舟に弟子入りしていて、勝を訪ねてきた
龍馬と偶然会うというストーリーになっていましたが、龍馬と同
行して勝と会い、一緒に弟子入りしたという説や、龍馬が弟子入
りした後で、近藤を誘ったという説もあります。いずれにしても
大きな問題ではないので、ドラマに合わせておくことにします。
近藤長次郎は高知城下水道町の餅菓子商大里屋の長男として生
まれたのです。大里屋は龍馬の生家に近く、3つ違いの龍馬とよ
く遊んだのです。長次郎は河田小龍の家によく行き、外国の事情
や学問の話を聞くことが楽しみだったといいます。
しかし、商人の息子である長次郎は龍馬のように江戸にも行け
ないし、会いたい人にも会えなかったのです。しかし、その長次
郎にもチャンスが到来したのです。それは住まいに近い藩士の由
比猪内が江戸勤務になったとき、長次郎は猪内の従者として江戸
に出ることになったからです。
龍馬が勝海舟の弟子になって以来、龍馬と長次郎はほとんど行
動を共にしているのです。神戸海軍操練所の設立、長崎での亀山
社中、海援隊など、上杉宗次郎と名乗って龍馬に付添い、龍馬を
助けたのです。
文久3年(1863年)1月25日に龍馬は、大久保忠寛と面
談し、彼の大政奉還論を聞き、そのうえでその年の5月に横井小
楠にも会っています。このようにして、龍馬の考え方は少しずつ
固められていったのです。
さて、文久3年1月11日に勝海舟は順動丸という船に乗って
江戸に向かっています。この船には龍馬や千葉重太郎、近藤長次
郎も乗っているのです。しかし、順動丸は紀州沖で強風に見舞わ
れたため、15日の午後に下田港に寄稿したのです。
ところが下田港には肥後藩船である大鵬丸が停泊していたので
す。この大鵬丸は土佐藩が借用したもので、京都に行く山内容堂
を乗せて江戸を発ったものの、悪天候を避けて12日から下田港
に入港していたのです。
山内容堂が下田に滞在していることを知った勝海舟は、その夜
高松太郎と望月亀弥太を書生として同道させ、容堂の宿泊してい
た宝福寺を訪れたのです。そして容党と会っています。
ここで海舟は坂本龍馬以下、8、9名の土佐藩の脱藩者がわが
門下生にいるが、日本のための仕事をしているので、赦免して欲
しいと頼んでいるのです。
このとき、容堂は「彼らのことは君にまかす」といったので、
海舟がその証しを求めると、容堂は自分の扇に次の文を書いて海
舟に渡したといわれます。
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鯨酔三百六十回、鯨海酔候
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――─[新視点からの龍馬論/14]
≪画像および関連情報≫
●「鯨酔三百六十回、鯨海酔候」の扇の文字の意味
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「鯨のいる海を持つ土佐の大酒飲みの殿様」という意味であ
り、酒好きの容堂の自称である。しかし、全面的に脱藩の罪
が許されたわけではない。「脱藩は問わない」ということで
あり、容堂の独断で無罪放免となってしまっては、藩法の存
在意義がなくなる。容堂としては、ぎりぎり許容できる決断
であったのである。
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勝海舟/近藤長次郎