があります。
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1.大久保忠寛
2. 横井小楠
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大久保忠寛は幕臣で、時の老中阿部正弘に見い出されて海防掛
に任命された人物です。阿部正弘は福山藩主で、老中に就いたの
は、天保14年(1843年)のことで、これは遠山の金さんこ
と町奉行・遠山景元や、必殺仕事人・中村主水などの時代です。
天保といえば「天保の改革」が有名ですが、この改革は老中水
野忠邦が主導して、幕政の建て直しを図ろうとしたのですが、失
敗しているのです。阿部正弘は、その水野忠邦の後任として、天
保の改革の後始末をすることを期待されたのです。
阿部正弘は老中としては大変若かったのですが、この当時老中
の顔ぶれが次々と入れ替えになった時代で、そのため、就任して
すぐに「着任の順番」ということで、老中主座に据えられること
になります。
そのとき時代はまさにアジアの情勢が急速に展開しつつあり、
阿部はもっとハードな仕事をすることを求められたのですが、こ
の若くして優秀な人材が幕閣にいたことは、日本にとって大変幸
運だったといえます。それほど阿部はよくやったのです。
阿部正弘は次々と優秀な若手を抜擢し、日本の困難な時代を乗
り切ろうとしたのです。その優秀な人材の一人が大久保忠寛なの
です。大久保は、自身の蘭学の師である勝海舟を阿部に推薦し、
勝海舟は下田取締手付に任命されたのです。
この大久保忠寛よりも8歳年上の幕末の思想家が横井小楠なの
です。肥後藩士横井時直の次男として生まれ、早くから頭角をあ
らわし、肥後藩の藩校である「時習館」に学び、居寮長に抜擢さ
れたり、江戸留学を命ぜられた秀才です。
小楠は、「実際に役立つ学問こそ、最も大事」という考え方を
持っており、小楠の教えを受けた人たちのグループを「実学党」
というのです。しかし、当時の熊本(肥後藩)には、実学党に対
して、保守的な「学校党」とか、尊皇攘夷をめざす「勤王党」な
どのグループがあり、幕末から明治にかけて、政争を繰り返して
いたのです。
横井小楠の考え方は保守的な考えの強かった地元熊本では受け
入れてもらえなかったのです。天保14年(1843年)に横井
小楠は、肥後藩の藩政改革のために「時務策」を書いてを献策し
たのですが、藩の経済行政を批判したという理由で、肥後藩には
受け入れられなかったのです。そのため、横井は主として藩の外
部で活躍することになります。
この横井小楠に目をつけたのが、越前福井藩主の松平慶永(春
嶽)です。松平春嶽は横井小楠を越前藩の賓客として招き、越前
藩の改革の指導を受けたのです。春嶽は、ペリーが来航したとき
は、強硬な開国拒絶論を展開したのですが、藩士の橋本左内の見
解を容れて、安政年間(1854〜59年)には開国貿易の賛成
に転じていたのです。
春嶽は横井小楠から、開国通商、殖産興業、国民会議の設置な
ど、日本の根本的な改革を教わり、積極的な開国通商を行うべし
との開明的な政治感覚を持つようになっていたのです。春嶽は、
文久年間(1861〜63年)に政治総裁職を命じられ、京都か
らの勅使(三条実美と姉小路公知)が幕府に突きつけた攘夷決行
要求に苦慮していたのです。そのとき、大久保忠寛は越前屋敷に
おいて次のような重大な発言を行っています。
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攘夷の勅諚はお受けすべきではない。強いて承服せよというの
であれば、大政を朝廷に奉還し、徳川家は以前のとおり、駿河
・遠江・三河の三国を領知する一諸侯の地位にもどればよろし
い。政権を奉還すると、天下がどうなるか。予測はできぬが、
徳川家の美名は千載の笑いをまねくよりははるかによい。
──大久保寛永
高野 澄著『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
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そのとき大久保忠寛の話を聞いていたのは、松平春嶽と横井小
楠の2人だったのですが、彼の話には心底驚いたといわれます。
ときは文久2年10月20日──この日は、幕末維新の変革史に
おいて画期的な日になったのです。
この大久保の啓明は、あの山内容堂も感銘を受けたとされてい
るのです。山内容堂は、10月23日に越前屋敷に松平春嶽を訪
ねて次のように述べています。
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今日、城内で大久保なにがしの「大開国論」をうかがった。い
ちいち感 服のほかはなかった。 ──山内容堂
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坂本龍馬は、人づてにこの動きを知っていたのです。この松平
春嶽、大久保忠寛、横井小楠、山内容堂と続く人脈は、坂本龍馬
にとって、何やら魅力的な政策案を実現しつつあるように思えた
のです。そして、その要の松平春嶽にぜひ会いたいと考えたので
す。しかし、龍馬は、脱藩者、春嶽は藩主であり、幕府の重役で
あって、めったに会える相手ではないのです。
ところが幸運なことに、千葉定吉の子息の重太郎が越前藩の剣
術指南役をしていることを思い出し、千葉重太郎を介して松平春
嶽に目通りがかなったのです。
そのとき龍馬と同道したのは土佐藩郷士の間崎哲馬です。幼少
より神童の誉れをほしいままにし、16歳で遊学した江戸の安積
良斉門で塾頭も務めている秀才です。また、春嶽は身分を問わず
諸人の意見を聞く「言路洞開」(げんろどうかい)を実践してい
たのです。このとき龍馬は勝海舟と横井小楠への春嶽からの紹介
状を手にしています。 ――─ [新視点からの龍馬論/13]
≪画像および関連情報≫
●「翔ぶが如く」の中の一節/司馬遼太郎
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関 「言路洞開が殿のご方針である」
伊地知「(つぶやく)言路洞開?」
有村 「なんのことじゃ」
大山 「おいにもわからん(と吉之助を見る)」
吉之助「(わからんと首を振る)」
ざわめく若者たちを関はズイと見渡して、
関 「言路洞開とは、すなわち新しかご政策のためには何
事も大事である。よろしき意見ある者は、遠慮なく上
申するようにとの仰せである」どよめく若者たち。
http://d.hatena.ne.jp/amendou09/20090920/p1
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松平 春嶽/夏八木 勲