2010年10月20日

●「吉田東洋はどういう人物だったか」(EJ第2921号)

 坂本龍馬の脱藩について武市瑞山は、まるでそれを予想してい
たように次のようにいったといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
     あの男は、土佐にはあだたぬ奴じゃきに
―――――――――――――――――――――――――――――
 「あだたぬ」とは、土佐には「おさまりきれない」という意味
であり、武市は龍馬のスケールの大きさを認めていたのです。で
すから、いずれ脱藩することを覚悟していたと思われます。しか
も、武市は龍馬の脱藩を讃える一文まで書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
         肝胆もとより雄大にして
         奇機おのずから湧出す
         飛潜、誰か識るあらん
         ひとえに龍名に恥じず   ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 武市瑞山は、龍馬の脱藩を待っていたかのように、あることを
決行します。あることとは何か。吉田東洋の暗殺です。当時の武
市にとって藩主の山内豊範とは意見が通じているものの、山内容
堂を後ろ盾にする参政の吉田東洋は、一藩攘夷を進める武市の最
大のカベであったのです。
 ちょうど藩主豊範の参勤出府が近づいていたので、城内で祝い
の宴が開かれたのです。集められた重臣のなかに吉田東洋もいた
のです。文久2年(1862年)4月8日のことです。
 夜も更けたので散会となり、東洋は、由比猪内、市原八郎衛門
後藤象二郎などと一緒に下城したのです。連れは途中で別れ、東
洋は若党と草履取りの2名の供を連れて新築の家の前まできたと
き、3人の刺客に襲われ、落命しています。
 刺客は、武市瑞山の指示を受けた勤王党の那須信吾、大石団蔵
安岡嘉助の3人です。彼らは東洋の首を斬奸状を添えて城下の西
外れの雁切橋にさらし、伊予路に逃れています。
 これによって吉田家は断絶になり、嫡子の源太郎は親戚に引き
取られ、養育されることになったのです。東洋の政権を構成した
面々は次々に解職され、土佐勤王党による東洋暗殺は一定の政治
目的を果たしたかに思われたのです。
 ここで吉田東洋について少し述べておきます。吉田東洋は通称
は官兵衛、名は正秋、東洋は号です。3人の兄がいたのですが、
次々と亡くなったので、吉田家の嫡子となっています。天保13
年(1842年)には船奉行になり、郡奉行に昇進しています。
郡(こおり)奉行というのは、藩全体の年貢の収納、民事、治安
などの行政全般を総括する重要職です。
 しかし、東洋は時の藩主の死に殉じて辞職し、学者や文人と交
際して学問に打ち込んだのです。帯屋町の私邸に閑居して読書と
講学に専念するにつれて、おのずと若い人材が集まってくるよう
になったのです。この東洋の門弟の中に、東洋の義理の甥に当る
後藤象二郎がいるのです。このグループを馬淵嘉平を中心とする
革新的な党派である「おこぜ組」に因んで、「新おこぜ組」と称
するようになります。
 時の藩主山内豊信(山内容堂)は吉田東洋を高く評価し、大目
付に登用し、さらに参政(仕置役)の重役に任用し、それ以後、
容堂の片腕的存在になったのです。山内容堂は、藩内の若手の献
策書に熱心に目を通し、優れていると思う者は目通りを許し、意
見を聞く度量があったのです。その目通りを許された中に、あの
武市瑞山も、岩崎弥太郎もいたのです。このシーンはNHK大河
ドラマでも放映されています。
 アメリカ大統領の親書を持って来日したペリーの開国要求に対
し、東洋は「開国拒否」の一文を示すと、この文書は容堂を通じ
て幕府に提出され、以後土佐藩の公式な姿勢となったのです。容
堂がいかに東洋を買っていたかを示すものです。
 これほど容堂から買われていた吉田東洋ですが、どうやら酒癖
の悪い欠点があったようです。安政元年(1854年)の容堂の
参勤に随行した東洋は、藩邸の酒席で喧嘩口論にまきこまれ、免
職になり、帰国を命ぜられるのです。
 これによって東洋は家禄を没収されたのですが、容堂の格別の
恩恵により、200石の家禄のうち150石は嫡子の源太郎に与
えられ、馬廻格の家柄もそのまま許されたのです。
 井伊大老の安政の大獄によって、山内容堂が隠居を余儀なくさ
れ、豊範が新藩主となったのです。しかし、若い豊範に政務を処
理する能力は乏しく、藩として重要な判断を迫られる時期である
だけに土佐藩は危機に陥ったのです。
 そこで、苦肉の策として、隠居の容堂と吉田東洋の新おこぜ組
との連携によって、危機の土佐藩を運営することにしたのです。
容堂の狙いは、新おこぜ組ならば、従来の政治に未練も利権もな
いので、思う存分改革がやれると考えたところにあります。
 しかし、土佐藩の保守派は東洋や新おこぜ組の復権に批判的で
あり、警戒的であったのです。このあたりに武市瑞山率いる土佐
勤王党のつけいるところがあったといえます。
 新おこぜ組は当然上士のグループであり、土佐勤王党は下士の
それであって、いずれ敵対関係にならざるを得ない状況にあった
といえます。坂本龍馬が世に出たとき、土佐藩はこういう状況に
あったのです。
 脱藩した龍馬は、さまざまなところを経由して文久2年6月頃
に大阪に達しています。ここではじめて龍馬は吉田東洋の暗殺を
知るのです。そのため、大阪ではそのため土佐藩の脱藩者の詮議
が厳しく、大阪入りを避けるよう仲間からアドバイスがあったと
いわれます。ちなみにこの頃大阪は「大坂」と呼ばれているので
すが、これについては関連情報をご覧ください。なお、EJ本文
では「大阪」に統一することにします。
 龍馬は吉田東洋暗殺計画を知っており、脱藩時期はそれより早
くしたと思われます。   ――─ [新視点からの龍馬論/12]


≪画像および関連情報≫
 ●「大坂」はなぜ「大阪」になったのか
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  大坂は「おおざか」と読んだとされる。江戸時代、商人の伝
  兵衛が海難事故でロシア帝国に漂流したとき、ロシア人には
  「ウザカ」と聞こえたと伝わっている。従来「おさか」と読
  んでいたのを大阪駅の駅員が「おーさか」と延ばして言うよ
  うになったことから、「おおさか」と呼ぶのが広まったとい
  う説もある。漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが
  大坂の「坂」の字を分解すると「土に反る」と読めてしまい
  縁起が悪いということから、江戸時代のころから「大阪」と
  も書くようになり、明治時代には大阪の字が定着する。一説
  に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士
  が反する」、すなわち武士が叛く(士族の反乱)と読めるこ
  とから「坂」の字を嫌ったとも、単に、役人の書き間違いか
  ら定着したともいう。        ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

吉田東洋役の田中泯.jpg
吉田東洋役の田中 泯
posted by 平野 浩 at 04:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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