のことです。龍馬の脱藩に関してはいろいろな意見があります。
一番スタンダードな説をはじめにご紹介します。
萩で久坂玄瑞と会って大きな衝撃を受けた龍馬は、文久2年2
月29日に土佐に帰ってきています。土佐藩から承認をもらった
ギリギリの日の帰還です。
そのとき、龍馬は久坂玄瑞から武市瑞山への次のような書簡を
託されているのです。読みやすい文体に訳しておきます。
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草莽(そうもう)の志を糾合して義挙する以外には策はないと
われわれ同志は意を固めています。坂本君にお願いした書状に
ある件について熟慮のほどお願いします。 ──久坂玄瑞
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3月3日に土佐勤王党の沢村惣之丞が脱藩したのです。これに
続き、3月7日に同じ勤王党の吉村寅太郎が、同志の宮地宜蔵と
ともに脱藩しています。なぜ、脱藩したのかというと、武市瑞山
に久坂玄瑞の唱える挙兵に参加するよう求めたのに対し、武市が
これを拒否したからです。
彼らは下関に渡って土地の豪商白石正一郎宅に集結したのです
が、沢村惣之丞は3月22日に武市瑞山のもとを訪れ、再度挙兵
を説いています。しかし、武市は動かなかったのです。既に述べ
たように、武市はあくまで「一藩勤王」を目指しており、藩に逆
らう挙兵に同意するはずがなかったのです。
このとき、龍馬は、吉村や沢村から脱藩の誘いを受けますが、
すぐには同意していないのです。というのは、龍馬の様子を見て
脱藩を察した兄の権平が龍馬に金を与えなかったからです。しか
し、龍馬の心は既に土佐になく、親戚の広光左門より金10両を
借り入れると、権平には近村へ旅行することを告げて家を出るの
です。文久2年3月24日のことです。当主の権平をはじめ、家
族全員はすべてわかったうえで龍馬を送り出しているのです。
脱藩とは、その名の通り、藩の政治力が及ぶ圏内から脱走する
ことであり、重罪なのです。その責めは家族にも及び、士籍を剥
奪され、追放処分に処せられることがあるのです。
しかし、少なくとも坂本家に関する限り、何の咎めも見られな
いのです。脱藩者を出した危険な家として監視の対象になってい
るわけでもなく、龍馬は家族に多くの手紙を出しているし、家族
はそれを受け取っているのです。
これに関して数多くの龍馬本の作家である加治将一氏は、龍馬
は土佐藩の密偵であるとして、次のように述べています。
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(脱藩のきっかけはなにか?)ここに、凄味ある第三の形態が
浮かび上がってくる。不祥事を起こそうとする場合、もしくは
起こすかもしれないと想定した場合だ。具体的には何を指すか
というと、オルグ活動である。龍馬は他藩の勤皇派と調整を図
る任務を帯びていた。直接命じたのは土佐勤王党、党首武市瑞
瑞山(半平太)。しかしその武市もまた、龍馬の処遇について
は、藩主、山内豊範ラインの許諾を密かに受けていた、とみる
べきだ。なぜ上層部は認めたのか〜ここで、龍馬のまた別の顔
が表われる。つまり龍馬は、勤王党のオルグ活動以外にも、藩
の耳目の任を拝命していたのではないか。すなわち前回同様、
密偵の要請を藩から受けていたという推測が鮮明に引き出され
る。 ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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龍馬の脱藩について書かれた書籍を読むと、龍馬の脱藩にいた
る道筋というか、心の変化には納得できるものがあります。しか
し、土佐藩の郷士があれほど脱藩したにもかかわらず、それに対
する土佐藩の対応はきわめて緩やかなものがあることは確かなこ
とです。脱藩を見て見ぬふりをする藩も多くなっていたのです。
それに文久2年当時の武市瑞山と藩主豊範とは比較的近く、密
命を受けていた可能性は否定できないのです。ただ、藩の改革に
ついては、前藩主である山内容堂の命を受けて取り組んでいた公
武合体派の吉田東洋と武市瑞山の間には強い確執があったことは
確かです。
当時の土佐藩の首脳部は、世の中が尊皇攘夷に進むのか、公武
合体になるのか、見極められないでいたのです。何しろ、テレビ
やラジオはもちろんのこと、新聞もない時代ですから、どの藩も
情報には飢えていたのです。
龍馬のことは、武市瑞山を通じて藩主豊範の耳に入っていたと
思われます。そういう観点から見ると、龍馬は諜報員には不可欠
な次の3つの能力を持っていたのです。
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1.積極的に人に会う
2.筆まめであること
3.資金力のある家格
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龍馬は自分が何かを知りたいと思うと、その人がどんなに遠く
にいても、どんなに苦労をしても、会いに行く積極性があったの
です。その点龍馬は2度にわたる江戸留学で、千葉定吉、佐久間
象山をはじめ、勤皇派に顔を売っており、多くの志士たちに会っ
ているので、既に多くの人脈を持っていたのです。
さらに龍馬は非常に筆まめであり、多くの人に送った手紙が残
されています。それも単に近況を伝える手紙だけでなく、誰かに
会いに行ったときの感想などをこと細かく関係者に書き送ってい
るのです。この性格も諜報員に打ってつけなのです。
藩にとって都合がいいことは坂本龍馬は裕福な下士であること
です。諜報活動には多くの資金がいりますが、坂本家であれば、
それを自己調達できる資金力があります。しかも、下士なので、
何か藩に不都合があれば、脱藩者なんか預かり知らぬこととして
切り捨てることができるのです。藩にとってこんな都合の良い話
はないのです。 ――─ [新視点からの龍馬論/11]
≪画像および関連情報≫
●「脱藩」という行為について
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戦国時代では、脱藩は主君を違える行為で一般的に発生して
いたが、江戸時代に入ると、「脱藩は臣下の身で主を見限る
ものとして」許されない風潮が高まり、討手が放たれること
もあった。これは、脱藩者を通じて軍事機密や御家騒動など
が表沙汰になり、藩にとっては致命的な改易が頻繁に生じた
ことも一因である。幕末には尊皇攘夷が興隆し、藩にいると
自由に行動できないので脱藩を行い、江戸や京都など政治的
中心地のおいて諸藩の同士と交流し、志を立てようとする武
士が増えた。藩の側も脱藩を黙認することが多かった。
──ウィキペディア
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加治 将一著『あやつられた龍馬』