2010年10月18日

●「久坂玄瑞に会って脱藩を決意」(EJ第2919号)

 河田小龍に続いて龍馬が影響を受けた人物は武市瑞山です。龍
馬が22歳のときです。坂本家と武市家は遠いながらも縁戚関係
にあり、武市瑞山としても心を許せるからこそ龍馬に土佐勤王党
への加盟を呼びかけたのです。その武市瑞山を介して龍馬が出会
うことになった人物が久坂玄瑞だったのです。この人物によって
龍馬は武市以上に思想上大きな影響を受けたのです。
 久坂玄瑞は萩城下に住む藩医の次男ですが、藩校の明倫館や医
学所で蘭学を学んでいます。兄の夭逝によって家督を継ぎ、長州
藩士となっています。安政4年(1857年)に吉田松陰の松下
村塾に入ったのですが、1歳年上の高杉晋作と共に吉田松陰門下
の双璧といわれたほどの逸材です。とくに松陰に可愛がられ、松
陰の妹を妻にしています。
 龍馬は、江戸留学から戻った後も剣の道の修業は続けており、
文久3年(1861年)10月には『小栗流和兵法三箇条』を許
されています。この直後に龍馬は讃岐丸亀藩への「剣術詮議」を
藩に願い出て、10月11日許可されています。「詮議」という
のは、「評議して物事を明らかにする」ことですが、そこから転
じて「剣の道を追求して極める」意味に用いられるのです。
 実はこの丸亀行きは、武市瑞山の依頼による密使であったとい
われているのです。その証拠のひとつとされるのが、許可を得て
から3日後に龍馬は柴巻(高知市)の古い友人の田中良助のとこ
ろに行き、金二両を借用しているのです。
 なぜ、龍馬はお金を借りたのでしょうか。この時期の坂本家は
お金に困っておらず、丸亀行きの資金は坂本家から出ているので
この2両は修行とは別枠の、家にはいえない資金であったものと
思われます。
 さらに同年11月になって龍馬は芸州(広島)の坊砂でも修行
を行うという名目で、藩に対し、翌文久2年(1862年)2月
までの延期を申請し、これも認められているのです。この坊砂で
の修業は虚偽で萩行きの時間稼ぎと考えられるのです。
 龍馬は丸亀の矢野市之進の道場を拠点として、丸亀藩の藩情を
探っています。これは土佐藩の密命と考えられます。この使命は
10月中に終り、11月1日から大阪に向かっているのです。
 そして龍馬は大阪で武知瑞山からの連絡を待っていたのです。
そのとき久坂玄瑞は江戸にいたのですが、9月に江戸を出立し、
萩に帰国したのは11月の半ばであったといわれています。
 やがて武市から連絡を受けた龍馬は、大阪から萩に向かったの
です。龍馬が萩に到着したのは文久2年(1862年)1月14
日のことです。
 龍馬は直ちに久坂玄瑞へ用件とともに面会を申し入れ、久坂と
会っています。その面談は、15日、17日、21日の3日間に
わたっているのです。久坂の日記である『江月斉日乗』の11月
14日の条には次の記述があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
       土州坂本龍馬、武市書簡携え来訪
―――――――――――――――――――――――――――――
 武市瑞山としては、その時点で久坂に書状を託すほどの用事が
あったわけではないのです。むしろ龍馬に久坂の話を聞かせて、
久坂の尊皇攘夷の大義を吹き込みたかったのです。というのは、
龍馬は土佐勤王党に加盟はしたものの、何かいまひとつ引いてい
るところが武市には見えていたからです。
 ところが、龍馬は久坂玄瑞が次のように激白したことが強く印
象に残ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 尊攘貫徹の大義に殉ずるなら、藩候の命を待たずに挙兵上洛
 藩国滅亡するも苦しからず         ──久坂玄瑞
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬が久坂の話で一番驚いたのは、「藩候の命を待たずに挙兵
上洛」ということなのです。「藩命が不要とは驚嘆すべき奴」と
思ったのです。そして、龍馬はそのときはじめて「藩を超える」
という発想にふれたのです。そのときから龍馬は「藩ではなく、
日本が大事なのだ」と思いいたったのです。
 しかし、武市瑞山の考え方は違っていたのです。武市の考え方
について、作家の広瀬仁紀氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 武市の思考は、当時の薩摩藩国父だった島津久光に似ていた。
 薩摩藩前藩主の島津斉彬が死没した翌年の安政6年になって、
 薩摩誠忠組が脱藩突出を企図した時、久光は藩主忠義の自筆で
 誠忠組を制止する論告書を差しだした。その文中で久光は、時
 変到来ノ節ハ国家ヲ以テ忠勤ヲヌキンズベキ心得二候、と忠義
 に書かせた。要するに、勤王は藩主を戴いて為せ、という一藩
 勤王論の展開であった。主従の義理にとらわれている武市にし
 たらば、それこそが勤王の典型といえた。藩庁の意向どころか
 藩侯の威光まで等閑に付して同心の者を糾合し、上洛の強行貫
 徹をいう久坂や高杉らとは、その立場を別にしていた。挙藩勤
 王──が、武市の理想とする体制というものだった。
                      ──広瀬仁紀著
           『坂本龍馬七つの謎』/新人物往来社編
―――――――――――――――――――――――――――――
 武市瑞山は、龍馬を久坂玄瑞に会わせて、攘夷の思想を強く持
たせようとしたのに、龍馬の方は久坂の話から、藩という武市が
絶対的に超えられない枠を超える発想を身につけてしまったので
す。この発想を持ったことが、龍馬を脱藩に駆り立てる原動力に
なったのです。
 長州藩では、開国的な長井雅楽(うた)が公武合体策をとって
藩政を握っており、尊攘派を圧迫していたのです。土佐藩も公武
合体派の吉田東洋が参政となって藩政を改革し、武市瑞山率いる
土佐勤王党の献策を退け続けていたのです。長州、土佐両班とも
に藩命不要の草莽決起か、藩内革命かの袋小路に入ってしまって
いたのです。       ――─ [新視点からの龍馬論/10]


≪画像および関連情報≫
 ●久坂玄瑞について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  玄瑞は松下村塾入門の後、幼な友達の高杉晋作に入門をすす
  め、最初はためらいがちだった晋作も松陰に入門した。二人
  は前述したとうり村塾の双璧と呼ばれ、松陰曰く「暢夫(晋
  作)の識を以って、玄瑞の才を行ふ、気は皆其れ素より有す
  るところ、何おか為して成らざらん。暢夫よ暢夫、天下固よ
  り才多し、然れども唯一の玄瑞失うべからず」(高杉暢夫を
  送る叙)と、二人に互いを認めさせ、協力していくことを促
  している。松陰のこうした導きにより、二人は競い合いつつ
  も「玄瑞の才」、「晋作の識」を互いに認め合うのだった。
http://www.geocities.jp/hirokami1024/sisisyunjyu/genzui.htm
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久坂玄瑞.jpg
久坂 玄瑞
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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