2010年10月15日

●「青蓮院令旨事件と3人の切腹」(EJ第2918号)

 武市瑞山の率いる土佐勤王党は、尊皇攘夷の追い風に乗って、
土佐藩においてその存在感を拡大してきたのですが、その勢いに
乗ってというか、大失敗を冒してしまうのです。それが「青蓮院
令旨事件」なのです。
 既に述べたように、山内容堂は、過激な改革は望まず、穏健な
改革を志向していたのです。容堂は土佐勤王党のリーダーである
武市瑞山を上士に取り立てその働きに対して評価している一方で
吉田東洋を亡きものにして土佐藩を尊皇攘夷路線に変更させよう
とする強引な動きに不快感を持っていたのです。
 尊皇攘夷路線にするということは、幕府を倒すということが前
提になるからです。倒幕に対する容堂の考え方は次のようなもの
であり、武市瑞山に対してもこの考え方を何回も繰り返して説い
て聞かせていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 いま土佐藩は朝敵でない限り、徳川家に背くことはできない。
 徳川家に対して、長州藩には関ケ原の合戦に敗れて領地を削ら
 れた怨みがある。だが、わが土佐の山内家は6万石から20万
 石に加増されている。徳川家への恩は深い。 ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、武市瑞山はそれでも土佐藩の現状に満足していなかっ
たのです。京都に常駐する機会が多くなった土佐勤王党の党員は
自然に京都の公卿との付き合いも多くなるなかで次のようなこと
が起こったのです。
 土佐勤王党の間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太の3人は、朝廷
の力を借りて山内容堂を動かそうと画策して、次のような行動を
起こしたのです。
 間崎哲馬らは、尊皇攘夷派の公卿である清蓮院宮(中川宮)朝
彦親王から令旨(りょうじ)を受け、容堂の前の藩主である豊資
を動かそうとしたのです。
 令旨とは、もともとは皇太子と3后──太皇太后、皇太后、皇
后──の命令を伝えるために出した文書のことですが、これ以外
にも皇族──女院、親王、諸王──の出す文書も令旨と呼ぶよう
になったのです。この場合は、清蓮院宮朝彦親王の命令書である
ので、令旨と呼ぶのです。
 文久2年(1862年)12月のこと。清蓮院宮からの令旨を
受け取った間崎たちは、土佐に戻り、それを楯に藩政改革を要請
したのです。
 これに対して山内容堂は激怒したのです。藩主豊範の命を受け
ずに陰謀を企てたといって、間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太の
3人を投獄したのです。
 これに驚いた武市瑞山は、3人の真情を容堂に訴えたのですが
容堂の怒りは解けず、文久3年(1863年)6月に3人に対し
て切腹を命じたのです。これが青蓮院令旨事件の顛末です。実は
この事件が発端なって、山内容堂による土佐勤王党に対する弾圧
が始まったのです。
 この3人のうち、平井収二郎は龍馬と親しく、その妹加尾は幼
なじみで、龍馬の初恋の人といわれていたのです。大河ドラマで
は、加尾役をやったのは広末涼子です。
 ここで話を坂本龍馬に戻します。坂本龍馬の学問は、人と会っ
て教えを聞いて覚える耳学問であったといわれます。何かが得ら
れると感じたら、どんなに苦労してもその人に会いに行く行動力
が龍馬にあったのです。もし、その人が会うのが困難な人であっ
たときは紹介してもらうことによって、目的を果たしたのです。
それは優秀な営業マンそのものであり、龍馬には生まれながらに
して商人としての資質が備わっていたといえます。
 そういう龍馬が20歳のとき会って、その後の考え方に大きな
影響を与えた人物がいます。河田小龍という人物です。河田小龍
は土佐藩でもっともワールドワイドな知識を持っているといわれ
た人であり、土佐藩のお抱え絵師をしていたのです。
 河田小龍の知識を大きく広げたのは、漂流民として11年間も
米国で過ごし、帰国した中浜万次郎──ジョン万次郎の審問を藩
から命じられたことがきっかけなのです。河田小龍は万次郎の取
り調べに当りながら、彼が持ち帰った世界地図を写し取り、それ
を本にして、ときの藩主山内豊信(容堂)に献じています。
 その河田小龍に会ったとき、龍馬はいきなり「いまの日本の時
勢に対処すべき良い策はあるのでしょうか。ご意見を賜りたい」
と切り込んだのです。龍馬20歳、小龍31歳であったのです。
これに対して河田小龍は自分は世捨て人であり、絵師だといって
かわしますが、龍馬の真剣で、熱心な問いかけに対して、次のよ
うに話したのです。
 攘夷などは日本の国力からして難しい。しかし、開港するにし
ても国防は必要である。この国防──攘夷か開国か──これを一
挙に解決する方法があるといって次のことを教えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 まず商業を興し、金融を自在にすること。その利益で外国船を
 買い、航海術を学びながら、物資の運送によってさらに利益を
 えて経済力をつけると同時に、国を守る海防力とする。それが
 外国に屈伏しない道だ。          ──山本 大著
        『坂本龍馬/知れば知るほど』/実業之日本社
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときの世の中は、「攘夷か開国か」で沸き立っていたので
すが、河田小龍は攘夷か開国の二者択一ではなく、第3の道を龍
馬に説いて聞かせたのです。
 このとき以来龍馬は、現実というものを多角的視点、とくに実
利性からとらえるようになったのです。それも個人的な狭い実利
追求ではなく、大局に立った実利です。
 龍馬は「海」と「船」に着眼したのです。船舶を得ることで国
力をつけ、列強の干渉を排除しうる海防とする──この考え方に
着眼したのです。     ――─ [新視点からの龍馬論/09]


≪画像および関連情報≫
 ●河田小龍伝
  −――――――――――――――――――――――――――
  文政7(1824年)〜明治31年(1898年)。土佐藩
  の絵師。文政7年(1824年)に高知城下・浦戸片町に生
  まれる。幼少より絵の上手かった小龍は、南宋画の画家であ
  る島本蘭渓に入門。その才を磨く。翌年には土佐藩でその名
  を博した儒学者・岡本寧浦に入門。儒学などを学ぶ。岡本寧
  浦と親交があり、以前から小龍に目をかけていた吉田東洋の
  すすめで23歳の時に京都・大阪に遊学。京都では南画、大
  阪では書を学ぶ。京都では狩野派・狩野永岳に入門した。そ
  の後、長崎で蘭学なども学んだ。
      http://www17.ocn.ne.jp/~tosa/kawada/kawada.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

平井収二郎と平井加尾.jpg
平井 収二郎と平井 加尾
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
平野様、いつも貴重な情報を教えていただき
勉強させていただいております。
多様で正確な情報を得た、地下のネット住民は、
この国の状況に危機感を持っていますが、
表のマスコミは、恣意的な情報を
垂れ流すばかりです。

そこで、個々の
ネットブローガー、ネット住民、
ネットジャーナリストが、顔と顔を会わせ、
ゆるやかな連帯を持つ場としてネット大集会を
行おうと計画いたしました。
テーマは”ネットから世論を変える”としました。
小沢さんの小石川高校の同級生が作った
”小沢一郎議員を支援する会”のシンポジウムの
第3回シンポジウムの後半で、小沢さんのビデオレターの発表後、ブロガー、ネットジャーナリスト紹介等の
交流の場を持ちたくご参加いただけたらと、
ここに書かせていただきました。
もしよろしければメールアドレスに
ご連絡いただけますか?ご案内状、ご招待状を
送らせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。
Posted by sugiyama at 2010年11月10日 21:21
sugiyama様 いつもEJをご愛読いたたき有難うございます。「小沢一郎議員を支援する会」シンポジウム開催の件、お誘いいただき恐縮です。仕事の関係上参加はできませんが、お役に立てることがあれば何なりとお申し出ください。今後共よろしくお願いいたします。
Posted by 平野 浩 at 2010年11月14日 16:42
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