2010年10月14日

●「開国から攘夷へ/幕府方針の変更」(EJ第2917号)

 井伊大老が暗殺されたあと、土佐藩では、吉田東洋の進める公
武合体派と武市瑞山の率いる土佐勤王党の内部抗争が一段と激化
するのです。公武合体派のほとんどは藩主を含め上士であり、こ
れに対する土佐勤王党は下士ばかりであったので、期せずして上
士と下士の対決色が強くなったのです。
 そのときの土佐藩主は山内豊範でしたが、豊範は公武合体派で
はあったものの、どちらかというと、武市瑞山の意見に耳を傾け
るところがあったのです。
 しかし、吉田東洋は、武市瑞山の度重なる「一藩攘夷」の献策
にまったく聞く耳を持たず、献策をことごとく退けたのです。い
うところの「門前払い」です。
 武市瑞山から見れば、吉田東洋はいわゆる抵抗勢力であり、そ
れを退けて藩内革命をしないと、コトは進まない──このように
考えるようになっても不思議はなかったのです。龍馬はそういう
武市瑞山に少しずつ距離をおくようになっていったのです。
 文久2年(1862年)4月8日夜、吉田東洋は那須信吾ら3
名の土佐勤王党同志に襲われ、惨殺されてしまいます。もともと
吉田東洋の政治基盤は強固ではなく、前藩主の山内容堂だけが頼
りだったのですが、その容堂はこの時期江戸で謹慎中の身であり
その政治力が弱くなっているときを狙って暗殺は実行されたので
す。容堂としては、土佐勤王党が過激路線を取ることを警戒して
いたのですが、それを防げなかったのです。
 吉田東洋の暗殺を受けて土佐の藩論は大きく変わったのです。
武市瑞山の狙い通り、それまで吉田東洋によって押さえつけられ
ていた藩内の攘夷派は、藩主山内豊範を擁して京都に上がり、朝
廷のもとで国事を尽くすようになったのです。そのとき、警備の
ため、土佐勤王党は藩主に同行しているのです。
 これに加えて、土佐勤王党は、三条実美と姉小路公知が勅使と
して江戸に向かう際にも警備のため同行しています。このときが
武市瑞山と土佐勤王党の絶頂期であったといえます。
 ところで、三条実美と姉小路公知が勅使として江戸に行くとい
う話については少し説明がいると思います。
 井伊大老が暗殺された後、老中の首座には磐城平藩主の安藤信
正、老中には一橋派の関宿藩主の久世広周が就任します。彼らは
井伊大老時代の幕府と朝廷との深刻な対立を何とか解消したいと
考えたのです。
 ときの孝明天皇は、まだ20代の青年で、かなり活発な性格で
あったといわれます。当時の天皇・朝廷は、長崎などを通じて豊
富な情報を有していた幕府と違って、ほとんど情報が入ってこな
い状況にあったのです。そういう状況では若き孝明天皇が攘夷に
傾斜するのは当然であったといえます。
 そこで安藤・久世政権は、一発逆転の提案を朝廷に対して行う
のです。それは、孝明天皇の妹の和宮と第14代将軍家茂を結婚
させ、天皇・朝廷と幕府とを和解させようとしたのです。いわゆ
る「和宮降嫁」です。
 この実現に尽力したのが岩倉具視なのです。安政の大獄によっ
て、それまで権力を握っていた鷹司政通や近藤忠煕が失脚し、岩
倉具視らが台頭していたのです。岩倉は「王政復古」を狙ってい
たのですが、その第1段階として幕府と近くなっておくことは得
策であると考えたのです。
 説得は簡単なことではなかったのですが、結局孝明天皇は、岩
倉具視の建言を受け入れて「和宮降嫁」が決定するのです。しか
し、和宮降嫁には大変な条件が付いていたのです。その条件とは
幕府は7〜8年以内に攘夷を行うというものです。
 幕府は老中首座の阿部正弘から井伊直弼まで一貫して開国政策
を展開してきたのですが、公武合体のためにこの実施困難な条件
を飲んでしまうのです。
 さて、和宮が正式に結婚したのは文久2年(1862年)のこ
とです。1860年代前半は日本では、実にいろいろなことが起
こっているのです。1860年の井伊直弼の暗殺、1861年の
土佐勤王党の結成、1862年の吉田東洋暗殺、そして和宮降嫁
と続くのです。
 それでは、三条実美と姉小路公知が勅使として江戸に行くとい
う話は、何なのでしょうか。
 三条実美とは、急進尊皇攘夷派の公卿の代表であり、条約の勅
許の是非が問題になると、その前面に出てきて内外の注目を集め
た人物です。実美の父の実方の養女、正姫が山内容堂の妻になっ
ていることから、土佐藩とは深い関係にあったのです。姉小路公
知も三条実美と共に尊皇攘夷派の有力な公卿です。
 1862年11月に朝廷は、三条実美と姉小路公知を勅使とし
て江戸に派遣し、幕府に攘夷決行を迫ったのです。そのとき、武
市瑞山は、姉小路家の公卿侍となり、柳川左門と変名して、勅使
一行に随員しているのです。武市瑞山の率いる土佐勤王党の士気
は上がる一方であったのです。
 しかし、安藤・久世政権のこの決断が、その後の幕末の混乱を
一層激しいものにしたといえます。これについて榊原英資氏は次
のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 安藤・久世政権の公武合体策は確かに政治的には望ましいもの
 であったかもしれませんが、それまで幕府が維持してきた、現
 実的かつ開明的な開国政策を犠牲にしたという意味で大変問題
 でした。幕府が孝明天皇や朝廷の非現実的、かつ観念的な壊夷
 論に屈してしまったことが、幕末から維新にかけでの混乱に拍
 車をかけることになります。 ──榊原英資著/朝日新聞出版
        『龍馬伝説の虚実/勝者の書いた維新の歴史』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまでの武市瑞山の働きは、土佐藩に対する大きな功績であ
り、1863年に武市瑞山は、白札から「上士格留守居組」への
昇進が決まったのです。しかし、これは山内容堂の策略であった
のです。         ――─ [新視点からの龍馬論/08]


≪画像および関連情報≫
 ●三条実美について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  江戸時代後期、幕末から明治の公卿、政治家である。明治政
  府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。内閣制度発足後
  は最初の内大臣を務めている。藤原北家閑院流の嫡流で、太
  政大臣まで昇任できた清華家のひとつ・三条家の生まれ。父
  は贈右大臣・実万、母は土佐藩主・山内豊策の女・紀子。妻
  は関白・鷹司輔煕の九女・治子。「梨堂」と号す。華族制度
  の発足後は本人の功が考慮され、公爵となった。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

三条実美.jpg
三条 実美
posted by 平野 浩 at 04:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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