2010年10月13日

●「土佐勤王党結成の時代背景を探る」(EJ第2916号)

 ここで武知半平太について述べる必要があります。NHKの大
河ドラマでは大森南朋(なお)が演じていた役柄です。大森南朋
はなかなか人気のある俳優であり、武知半平太が切腹して果てる
シーンのあと、大河ドラマの視聴率が落ちたといわれます。
 それはさておき、武知半平太は通称名であり、正しくは武知瑞
山(ずいざん)というのです。当時の土佐藩における武知瑞山の
家は、上士でも下士でもない中間的地位の「白札」であったので
す。階級を詳しく書くと、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ●「藩主」
   ≪上士(士格)≫
    ・家老/中老/物頭/馬廻/小姓組/留守居組
   ≪白札≫
   ≪下士(軽格)≫
    ・郷士/用人/徒士/組外/足軽/庄屋
   ≪地下浪人≫
―――――――――――――――――――――――――――――
 武知瑞山は、小野派一刀流の剣術指南として名声を博し、嘉永
2年(1849年)には、高知城下の田淵に道場を移し、120
人を超える門弟がいたといわれます。
 その門弟の中には、中岡慎太郎、久松喜代馬、岡田以蔵、五十
嵐文吉などがいたのです。武知瑞山は、安政2年(1856年)
に江戸に出て、弟子の岡田以蔵とともに鏡新明智流の桃井春蔵に
学び、やがて桃井の塾頭になって、剣名を轟かせたのです。
 ときの土佐藩主は、山内豊信──この人は大河ドラマでは近藤
正臣が演じており、ただの酒飲み藩主のように見えますが、幕末
の四賢侯といわれるほど優れた藩主だったのです。そのため、幕
府からも尊皇攘夷派からも大きな期待が寄せられていたのです。
 土佐藩主山内豊信は、吉田東洋を登用して土佐藩の財政立て直
しを進めていたのですが、下の者の意見もよく聞き、武知瑞山も
当初は高く評価していたのです。ちなみに、幕末四賢侯とは次の
4藩主のことをいいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
       土佐 藩主 ・・・・ 山内豊信
       福井 藩主 ・・・・ 松平春嶽
       宇和島藩主 ・・・・ 伊達宗城
       薩摩 藩主 ・・・・ 島津斉彬
―――――――――――――――――――――――――――――
 山内豊信は揺れ動く幕末の情勢に土佐藩としてどう動くか判断
を決めかねていたのです。彼は思想としては開明的であったので
すが、その根っこは封建的な藩主であって、公武合体による幕藩
体制の維持を考えていたのです。
 しかし、ときの情勢は予断を許さぬものがあり、幕末の時流に
うまく乗る必要があると考えてもいたのです。そのため、豊信は
「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されていたといいます。こ
ういう藩主ですから、武知瑞山や龍馬を使って江戸の情勢を探ら
せていたという話は真実であったと思います。
 豊信は佐幕派ではあったのですが、将軍には人を得る必要があ
ると考えていたのです。13代の将軍・徳川家定が病弱で嗣子が
なかったため、豊信をはじめとする四賢侯と水戸藩主である徳川
斉昭たちは一致して徳川慶喜を次期将軍に推していたのです。
 しかし、安政5年(1858年)4月に大老の地位に就いた井
伊直弼は、その強権をもって将軍継嗣問題や条約調印問題などの
懸案事項を強引に解決しようとしたのです。6月19日、日米修
好通商条約に勅許を得ないまま調印するや、6月25日、紀州藩
主である徳川慶福を将軍世嗣とすることを発表し、慶福が第14
代将軍家茂に決まったのです。
 山内豊信はこれに反発し、安政6年(1859年)2月に隠居
願いを幕府に提出し、藩主を息子の豊範に譲っているのです。井
伊大老は、地位を利用してこのさいに政敵を排除しようとして、
同年10月に斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下っ
たのです。いわゆる安政の大獄の一環です。
 安政の大獄はその後大きくエスカレートし、その反発は極限に
達し、安政7年(1860年)3月3日、井伊大老は、桃の節句
の祝儀に江戸城に参上する途中、桜田門において、水戸・薩摩の
浪士たちに襲われ、命を落としたのです。享年46歳、最も仕事
のできる年代だったのです。
のちに隠居の身となった豊信は当初、「忍堂」と号したのですが
のちに「容堂」に改めたのです。ところで、井伊直弼が暗殺され
たと同時に、自動的に謹慎を解かれた形になった山内容堂ですが
江戸は品川の屋敷の窓という窓を全部開け放ち、「わしの謹慎は
終わりじゃ!」と叫んだといわれます。それ以後、隠居の身であ
りながら、藩政に影響を与え続けることになるのです。大河ドラ
マでは、藩主豊範はまったく出番が与えられていないのです。
 一方、武市瑞山は、文久元年(1861年)9月に「土佐勤王
党」を結成しています。参加者は瑞山を筆頭として、192名で
あり、当時27歳の坂本龍馬も9番目に署名しています。土佐勤
王党は、土佐藩を尊皇攘夷で統一するという結社であり、長州藩
の桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らとも連携しながら、結党にこ
ぎつけたのです。この192名という人数ですが、6人を瑞山は
あえて外しています。これらの6名は吉田寅太郎、岡田以蔵など
山内容堂に名簿を提出するさい、問題になりそうな名前をあえて
カットしているのです。
 山内容堂自身は、朝廷という「公」と幕府という「武」の、い
わゆる「公武合体」が日本の求心力になると考えており、武市瑞
山の考え方に必ずしも賛成ではなかったのです。そこで吉田東洋
を参政として藩政を改革しようとしていたのです。しかし、土佐
勤王党の結党を認めています。これによって、土佐勤王党は藩内
に一定の勢力を築いたのです。
            ――─ [新視点からの龍馬論/07]


≪画像および関連情報≫
 ●『龍馬伝』における武市半平太像について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『龍馬伝』における武市半平太の描かれ方は、非常に特殊で
  あり、常に揺れ動き続けていたと思います。プロデューサー
  ・脚本家・演出家・俳優、すべてが最後まで人物造形につい
  て悩んでいた事が如実に伝わってきます。そしてやはりこの
  大河ドラマにおける武市半平太像は、一言で表現すれば「失
  敗であった」と言わざるを得ません。もちろん見所がまった
  くなかったわけではありませんし、個々のシーンとしては良
  い部分もあった。しかし、全体を見れば、成功しているとは
  言いがたい。以下にその理由を考察します。
   http://mousoutaiga.blog35.fc2.com/blog-entry-400.html
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武市瑞山.jpg
武市 瑞山
posted by 平野 浩 at 04:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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