2006年04月14日

ニクソンショックとは何か(EJ1816号)

 ブレトン・ウッズ体制では、金と兌換できる通貨をドルに限定
し、金1オンス=35ドルと定めています。これがあるからこそ
ドルは基軸通貨になったのです。
 ところが、ニクソン大統領の宣言は、そのドルと金とのリンク
を断ち切るといっているのです。要するに、この一方的な宣言に
よって、ドルはただの紙切れになってしまったのです。これほど
重要な決定と実行が大統領の権限でなぜできたのでしょうか。こ
の決定は議会を通っていないからです。
 このときの米国の目標は、「ドルを大幅に切り下げること」に
あったのです。米国がどのようにしてそのような事態に追い込ま
れたかについては改めて述べますが、米国による一方的なドルの
切り下げは、米国民にとって深い敗北感を味合わせることになり
かねないので、再選を狙うニクソンにとっては、絶対避けなけれ
ばならないことだったのです。
 金1オンス=35ドル――ドルの金に対する交換比率を変更し
例えば「金1オンス=40ドル」のようにして、ドルを切り下げ
る方法があります。要するに、金価格を上げるわけです。
 しかし、このように金の公定価格を変更する場合は、議会によ
る法改正措置が必要になるのです。公定金価格は金準備法(19
34年制定)の定めるところなのです。しかし、このようなもの
を議会にかければ民主党の攻撃のマトになるだけです。
 また、ドルを切り下げるときは、ブレトン・ウッズ体制のさい
決定された「価値維持条項」によって、その分を埋め合わせる追
加出資を世界銀行などにする必要があります。しかし、これは予
算措置であって、当然議会の承認が不可欠です。
 しかも、そのようなものを議会にかけると、情報が世界を駆け
めぐり、世界中でドル売り、金買いの取り付け騒ぎが起こること
は確実で、秘密は厳重に守られる必要があったのです。
 為替相場の安定にかかわる諸操作については議会を関与させな
いようにする必要がある――そのような意図のもとに作られたの
が、1934年制定の「金準備法」なのです。この法律の詳細は
不明ですが、外国為替安定基金を設けてこれを財務長官の裁量下
に置き、為替相場の安定のため必要な金にまつわる操作のすべて
を財務長官の裁量に委ねる――そのような法律なのです。
 この金準備法という戦前の法律の存在により、ニクソン大統領
は金に関わる操作の権限が集中している財務長官に命ずるかたち
で議会にかけることなく、ドルと金を完全に切り離す宣言を行う
ことができたのです。
 ところで「ニクソンショック」という意味は、ニクソン米大統
領による次の2つの事件の両方を含んでいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.日本の頭越しのニクソン訪中による米中の和解
   2.ニクソンによるドルと金のリンクの解除の決定
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 既にその兆候はあったのです。1971年8月15日のニクソ
ン宣言のちょうど1ヶ月前の7月15日――ニクソン大統領は1
年以内に訪中し、米中和解をはかると発表したのです。この訪中
計画の発表は、米中和解で最も影響を受ける日本には事前に何も
知らされず、突然行われたのです。
 当時米国の正面の敵であるソ連でさえその日の朝の時点で米国
から伝えられ知っていたのに、同盟国である日本に連絡のあった
のは発表の直前であったというのです。
 ロジャーズ米国務長官から電話で連絡を受けた牛場駐米日本大
使は、あわてて東京へ電話して就寝中の佐藤首相を起こしたので
すが、既に遅し、そのときには欧米のメディアはニュースとして
報道した後だったというのです。何ともお粗末の限り。
 谷口智彦氏の本に、このニクソン訪中に関する面白い逸話が紹
介されています。牛場大使が国務省政治担当国務次官をしていた
ウラル・アレクシス・ジョンソンに電話をして最初にいった言葉
が次の言葉だったというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   アレックス、「朝海の悪夢」が現実になった。
                ――牛場信彦大使
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アレックス・ジョンソンは、沖縄返還や繊維交渉などで米国の
窓口になっていた外交官で、牛場大使とは親交が厚かった人だそ
うです。ところで「朝海の悪夢」とは何のことでしょうか。
 「朝海」というのは、昭和初期の朝海浩一郎駐米大使のことな
のです。ある日、朝海大使は米国が日本に何も告げないで対中政
策を激変させた夢を見たというのです。朝海大使はその夢のこと
を外務省の仲間に伝えたことから「朝海の悪夢」と呼ばれるよう
になったというのです。そんなことが起きるはずはないが、もし
起こったら大変なことになる――そういう心配から、外務省内部
では、「朝海の悪夢」と名付けられていたのです。
 実はさすがに米政府内にも、事前にアレックス・ジョンソンを
東京に行かせ、佐藤首相に説明させる案があったらしいのですが
当のニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャー補佐官が反対し
て実現しなかったというのです。この2人は秘密主義なのです。
 当時日米繊維交渉が極めて難航しており、ニクソン大統領とし
ては、沖縄を返してやったのに佐藤首相は礼を欠いていると怒っ
ていたとも伝えられており、当時日米関係は必ずしも良好ではな
かったのです。
 ニクソンショック第2弾はどうだったのでしょうか。大統領の
演説が始まったのは米国東部時間8月15日午前9時――日本で
は翌日の午前10時のことですが、そのほんの少し前にロジャー
ズ国務長官が首相官邸にいた佐藤首相に電話で、「大統領の重大
発表がある。VOA(ボイス・オブ・アメリカ)を聞いてもらい
たい」という連絡があったのです。官邸では通訳を探すのに大騒
ぎとなり、全員で聞き取りにくい短波放送での発表に耳を傾けた
という話が伝わっています。    ・・・[日米関係の謎11]


≪画像および関連情報≫
 ・ニクソン訪中について
  1971年7月15日、「ニクソン大統領は1972年5月
  までの適当な時期に中華人民共和国を公式に訪問する、これ
  はアメリカと中国の間に横たわっている意見の相異と立場の
  違いを話し合うことによって、両国にとって共通の利益を見
  出して、外交関係を改善するための第一歩である」という発
  表があった。これは、アメリカにとって最も優先的な政策と
  は、アメリカの利益を損わないことだという建国以来の基本
  的な立場をアジア問題において主張したものといえる。それ
  だけにこの声明は、世界の注目をアメリカの外交とそれを受
  けて立つ中国の上に釘づけすることになったが、アメリカの
  国際政治における基本姿勢を確認させられた各国の表情は複
  雑だった。もっとも、アメリカの利益優先という合衆国の自
  己主張に対してのある程度の準備と理解があったからこそこ
  の訪中声明に対して世界各国が「一応驚きながらも歓迎であ
  る」といったきわめて常識的な反応を示したのだった。
  http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/unmei/08.htm

1816号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日米経済関係の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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