2010年10月08日

●「藩の密命を担った龍馬の江戸留学」(EJ第2914号)

 郷士坂本家は八平直海からはじまったのですが、その時点で弟
の八郎兵衛直清に才谷屋を譲っています。ところで、この才谷屋
というのは、農業の延長としての商業──酒造業を中心に質屋や
呉服商などの諸品販売にまで幅広く商売を発展させており、2代
目の八兵衛正禎(まさよし)にいたっては、八代藩主の山内豊敷
に目通りが許されていたほどです。このとき、坂本家は、まだ郷
士の家格も得ていないのですが、それなのに藩主のお目見えが許
されるのは破格なことです。
 その後郷士坂本家は、八蔵直澄に受け継がれ、八蔵の娘の幸に
入り婿として入籍したのが、八平直足なのです。この八平直足と
幸の長男が権平直方であり、次男が龍馬なのです。
 長男の権平直方と龍馬とは実に21歳の年齢差があり、龍馬か
ら見ると、兄というよりは父に近い存在であったと考えられるの
です。龍馬もそのように接しています。
 これに対して三女の乙女は、龍馬と3才差であり、遊び相手で
もあって、また龍馬にとって読み書きの師でもあるなど、龍馬は
いろいろな影響をこの姉から受けているのです。そのため、龍馬
は自分の行動を逐一姉の乙女に報告しているのです。
 こういう事情から郷士坂本家は、800家もある郷士の中でも
土佐藩としては一目置いている存在であったのです。そのため、
その子弟である龍馬を使って土佐藩の密偵に仕立て上げることは
十分あり得ることです。藩の郷士を密偵に仕立てるといっても、
その役目は誰でも務まるものではないからです。
 まして上士であれば、藩の仕事になるので、としてそのための
資金を用意する必要があるが、郷士の場合、藩としては資金を負
担する必要はなく、資金力のある郷士は使いやすかったのです。
 それは、龍馬が嘉永6年(1853年)12月に佐久間象山塾
に入門したことによっても明らかです。これは本人の意思だけで
はなく、藩の方から指示があったと考えるべきです。佐久間象山
は思想家にして哲学者ですが、蘭学者の黒川良安に師事しており
その基本軸は開国論者なのです。
 この当時の各藩は、江戸の中心部で何が起こっているのか情報
に飢えていたのです。そこで藩士や郷士を使っていろいろな角度
から、情報を探らせていたのです
 既に述べたように、佐久間塾の門下生には、中岡慎太郎をはじ
めとする20名を超える土佐藩士がおり、丸亀の土肥大作、長州
の高杉晋作と久坂玄瑞などいたのです。それに、やはりこの塾で
学んだ吉田松陰、勝海舟、河井継之助なども塾に頻繁に出入りし
ており、情報収集の場としては絶好の場所であったのです。
 おそらく龍馬は、そこで得た情報によって、天地がひっくり返
るほどの衝撃を受けたと思われるのです。何しろ一回目の江戸行
きのとき、龍馬は19歳に過ぎなかったからです。
 しかし、大河ドラマにおける龍馬は、第一回目の江戸行きのと
きから、革命的な思想の一端──藩という狭い次元ではなく、日
本として、日本人として何をすべきかなどと話しているのですが
おそらくその時点では、多くの先達たちの話を咀嚼し、自分の意
思を持つまでには達していないと思われるのです。
 佐久間象山の考え方は具体的であり、その提言は理にかなって
いるのです。例えば、幕府は伊豆の下田を開港して、対米交渉の
窓口にしたのですが、象山はこれに反対し、相模(神奈川県)の
横浜を開くべきだとしてその理由を次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 下田はアフリカの喜望峰とおなじ辺陬の地で、攻めるに難く、
 守るに安い天険の要害である。横浜を開港すれば朝に夕に彼ら
 の動静を観察しうる、のみならず、事があれば陸兵を派遣し、
 銃砲による攻撃が可能だ。江戸に近いのを理由に横浜に反対す
 る声があるが、まったく逆である。江戸に近いからこそ彼らは
 勝手な振る舞いができぬ。         ──高野 澄著
           『坂本龍馬/33年の生涯』/三修社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 安政2年(1855年)に龍馬の父である八平が亡くなったの
です。しかし、龍馬はその次の年の安政3年(1856年)に再
び江戸に向かっているのです。
 龍馬の2度目の江戸行きの目的も剣術修行となっていますが、
これは明らかにカモフラージュであり、藩からの命令であると考
えられます。しかし、このときの龍馬は2年前の田舎者の龍馬で
はなく、曲がりなりにも世間の裏を見聞し、世界情勢をある程度
掴みつつあったのです。このあたりから龍馬は、自分が属する藩
に対しても疑問を抱き、日本というものを意識してとらえるよう
になるのです。
 龍馬の2度目の江戸行きの安政3年(1856年)から安政5
年の2年間には天下の情勢は大きく動きつつあったのです。安政
3年には、米国総領事タウンゼント・ハリスが伊豆の下田に着任
し、安政4年10月に江戸城に上り、13代将軍家定に拝謁して
います。龍馬はこの時期江戸にいて、藩から江戸留学を一年延長
されているのです。江戸が騒然としてきているなかでの諜報活動
の重要性を藩が認識した結果と思われます。
 そして安政5年4月、彦根藩主井伊直弼が大老に就任して、日
米通商条約が結ばれるのです。これに反対する強硬な攘夷論者で
ある水戸斉昭らが将軍の継承問題とからめて暗躍し、それがやが
て井伊大老による弾圧──「安政の大獄」へと発展するのです。
 その江戸には、龍馬と同じ土佐の郷士である武市半平太もきて
いたのです。武市半平太は龍馬よりも6歳上であり、しかも坂本
家とは親戚に当るのです。そういうこともあって、江戸で2人は
連絡を取り合い、会っているのです。この武市半平太自身も藩か
ら密命を受けていたものと思われます。
 「幕府を倒し、天皇を戴く」──つまり、幕藩体制から朝藩体
制への移行です。これについては武市と龍馬の意見は一致してお
り、武市半平太は「土佐勤王党」の結成に向けて精力的に動き出
したのです。        ── [新視点からの龍馬論/05]


≪画像および関連情報≫
 ●「安政の大獄」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  安政の大獄は、1858(安政5年)から1859年(安政
  6年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。事件発生
  当時は戌午の大獄とも呼ばれていた。江戸幕府の大老井伊直
  弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約
  に調印し、また徳川家茂を将軍継嗣に決定した。安政の大獄
  とはこれらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。
  弾圧されたのは尊王攘夷や一橋派の大名・公家・志士(活動
  家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。
                    ──ウィキペディア
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井伊大老.jpg
井伊大老
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
中岡慎太郎は一度しか佐久間象山には会っていません。塾生などとはどの文献にもありませんが、何か史料があるのでしょうか?他のことはいざ知らず、中岡慎太郎に関する誤りには目をつぶるわけにはいきませんので一言。
Posted by 横山勘蔵 at 2010年10月08日 08:33
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