について知っておくことは、龍馬を理解するのに役立つと思うの
で土佐藩について考えてみます。
藩主の山内容堂以下、吉田東洋、その門下生の後藤象二郎、乾
退助(のちの板垣退助)、岩崎弥太郎など幕末からの時代転換に
大きな役割を果たした人材を多く輩出した土佐藩──土佐藩とは
どういう藩だったのでしょうか。
戦国時代の中頃の土佐は、土佐国(高知県)長岡郡の岡豊──
おこう──の城主、長宗我部氏が支配していたのです。岡豊は、
現在の南国市のことです。
長宗我部元親は、天正3年(1575年)に土佐一国の統一支
配に成功しています。続いて元親は、阿波(徳島県)、讃岐(香
川県)、伊予(愛媛県)に進出し、10年の年月をかけて四国全
体を制圧したのです。
ところが、豊臣秀吉は、長宗我部氏が強大になるのを許さず、
天正13年(1585年)に四国征伐の軍隊を送り込み、元親を
降伏させ、土佐一国だけの支配を許したのです。
元親は大高坂(おおだかさ──高知市)に城をつくって岡豊か
ら移る計画を立てたのですが、低湿地であったため、城下町の建
設に支障をきたしたので、吾川郡の浦戸に城を作って土佐を収め
たのです。これが土佐藩のはじまりです。
長宗我部元親の後継は四男の盛親です。盛親はついていない藩
主であったといえます。相続の翌年の慶長5年(1600年)に
関ヶ原の戦いが起こったとき、盛親は西軍として参加し、敗れて
います。関ヶ原の戦いは東軍の徳川家康が勝ち、盛親は土佐を奪
われ、浪人して京都に住んでいたのです。
そして大阪冬・夏の陣のときには、盛親は大阪城に入って戦っ
たのですが、またしても敗れ、京都で処刑されているのです。こ
れによって長期にわたって土佐を支配した長宗我部氏は、ここに
終焉のときを迎えたのです。
このようにして天下の覇者になった家康は、長宗我部氏のあと
の土佐24万石の領主として山内一豊を配したのです。慶長5年
11月のことです。
山内一豊はそれまで遠海(静岡県)の掛川で6万石の知行を得
ていた小規模大名だったのです。それが6万石から24万石の大
名になったので、土佐一国の統治は大丈夫なのかという声が当時
高かったといいます。
まして土佐には長宗我部氏の遺臣──一領具足──が多く残っ
ており、幕府には徹底抗戦の構えだったのです。長宗我部氏が領
主だったとき、土佐の軍勢はごく少数の長宗我部直臣と農村に生
活の根を下ろす郷士によって編成されていたのです。これらの郷
士のことを一領具足というのです。一領具足というのは、次のよ
うな意味なのです。
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一領具足は、平時には田畑を耕し、農民として生活をしている
が領主からの動員がかかると、一領(ひとそろい)の具足(武
器、鎧)を携えて直ちに召集に応じることを期待されていた。
突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も
常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、一領具足と呼称さ
れた。また正規の武士であれば予備を含めて二領の具足を持っ
ているが、半農半兵の彼らは予備がなく一領しか具足を持って
いないので、こう呼ばれていたとも言う。──ウィキペディア
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山内一豊といえば領地を統治する能力に優れ、最初こそ一領具
足の抵抗を受け、苦労したのですが、必要にして有効なな手をひ
とつずつ打って、一豊の次の世代になって、土佐を安定的に支配
することに成功したのです。
一豊は長宗我部の浦戸城に入ったのですが、ここでの統治は無
理と考え、大高坂山のふもとに新城──高知城──を築いたので
す。奇しくも大高坂は長宗我部元親が最初に居城を考えた場所で
あり、土佐一国を統治するには大高坂が最適であるという考え方
は同じであったのです。
山内家が土佐を支配した後、一領具足のうちから新しい性格の
郷士──准家臣──を採用する政策を実施しています。郷士の採
用は、正保元年(1644年)の100人、承応2年(1653
年)の100人というように何度かにわたって行われ、元禄10
年(1697年)を最後として800人ほどの郷士が採用されて
いるのです。
やがてこの800の郷士の資格が「株」として売買の対象とな
り、町人でもこの株を買えば、郷士になることができたのです。
幡多郡の大規模な町人であった才谷家の八平直益が長男直海のた
めに郷士の株を購入しています。明和7年(1770年)のこと
です。郷士坂本家はこうしてはじまったのです。
藩政の中心は山内系家臣であり、「上士」と呼ばれたのです。
これに対して郷士は「下士」と呼ばれて低い位置づけを強いられ
たのです。長宗我部氏の遺臣の不満を吸収するための制度であっ
たのですが、既出の加治将一氏は、下士の身分のひどさについて
次のように述べています。
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当時の下士に対する差別は、ひどかった。特に土佐藩は顕著で
ある。住む場所も城下ではなく、商人や職人が住む郊外。登城
するさいの服装も、こと細かに規定されており、上士は麻の裃
に絹の鼻緒が許されていたが、下士は紙の着物などと、待遇は
極端に蔑まれたものである。さらに、二本差しは許されるもの
の、百姓、町人と同様、「斬り捨て御免」の対象だったという
から、やはり武士などとは口幅ったくて決して言えるものでは
ない。どうあがいても、下っ端は下っ端である。
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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──[新視点からの龍馬論/04]
≪画像および関連情報≫
●山内一豊とはどういう人物か
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山内一豊は、豪傑というわけでもなく、名将智将というわけ
でもない。強いて言えば、ひどく生真面目で律義だというの
が取柄の人物であった。律義といえば、婦人にも律義であっ
た。実子がいない(女の子がいたが地震で死亡)にもかかわ
らず、当時の武将としては稀有なことに妻のほかに側室を持
たなかった。妻を愛していたということもあっただろうが、
若い時から苦労を共にしてきた妻に対して義理を欠くと思っ
たのであろう。織田、豊臣と2代に仕え、数多くの戦場を駆
け巡った一豊が得た所領は遠州掛川6万石。その彼が一躍、
土佐24万石の大大名になるのは関ヶ原合戦の後のことであ
る。54才である。
http://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/yamanouchi_kazutoyo.htm
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山内 一豊の像