2010年10月06日

●「龍馬の剣術修行にはウラがある」(EJ第2912号)

 ペリーが浦賀に来航したのは嘉永6年(1853年)6月のこ
とです。そのとき龍馬は江戸にいたのです。4月に北辰一刀流・
千葉道場に入門していたのです。
 ここで千葉道場について少し述べておきます。龍馬が入門した
のは、当時桶町にあった千葉定吉の北辰一刀流道場です。ところ
で、剣豪小説に出てくるのは千葉周作であり、北辰一刀流の創始
者です。千葉定吉というのは、千葉周作の実弟であり、周作を補
佐するかたわら、自らも道場を開いていたのです。
 周作の道場が「大千葉」とされたのに対し、定吉の道場は「小
千葉」と呼ばれていたのです。さて、桶町というのは、一丁目と
二丁目があるのです。一丁目が現在の千代田区八重洲二丁目であ
り、二丁目は京橋一・二丁目の一角にあたりますが、千葉定吉の
道場は現在の八重洲二丁目八番地にあったのです。
 ところが実際に龍馬が剣術を習ったのは千葉定吉ではなく、当
時30歳の長男の重太郎だったのです。定吉は因州(鳥取藩)の
江戸屋敷で剣術師範をつとめていて多忙だったからです。
 嘉永6年6月3日にペリーの率いる米国艦隊が浦賀沖に入港し
たのです。「黒船」といわれる蒸気船に乗ったペリーは大統領の
国書を持参し、幕府に対して通商を要求したのです。
 幕府は狼狽し、米艦隊の江戸湾侵入に備えて、6日に湾岸の芝
(港区)、品川(品川区)に藩邸を持つ諸藩に警備の命令を出し
たのです。これを「臨時御用」というのです。
 土佐藩は品川大井村(品川区東大井)の近くに「鮫洲別邸」と
称する下屋敷を持っていたので、幕府より警備の任が下ったので
す。下屋敷は、幕府の命を受けて江戸にいる藩士に動員をかけた
ので、龍馬も呼び出されたのです。
 このように、幕末という時代の扉が開かれる、まさにその現場
に龍馬は居合わせたことになります。これがその後の龍馬の行動
に大きな影響を与えたことは確かです。龍馬は警備を行いながら
練兵を重ねたのです。
 ペリーは来春の来航を告げ、12日には米国に引き上げて行っ
たのですが、龍馬の臨時御用は続けられ、任務を解かれたのは9
月になってからのことです。
 これでわかるように、龍馬は土佐藩から正式に許可をもらって
江戸に来ているのです。確かに龍馬の父である八平は支配筋の藩
家老・福岡宮内に江戸での剣術修行の許可を願い出て、その記録
は残っているのです。
 しかし、坂本家は郷士、すなわち下士であり、藩を出て江戸に
行くなどいう許可は下りないのです。ところで、坂本家は裕福で
あり、藩への貢物もよく行っていたので、許可されたというのが
通説だったのです。
 しかし、それは違うのです。土佐藩は龍馬に特命を果たすこと
を条件に江戸行きを許可したのです。これについて、龍馬研究の
専門家で、フリーメーソンに詳しい作家の加治将一氏はこれにつ
いて次のように述べているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬の江戸行きは、藩の家老福岡家の『御用日記』にきちんと
 載っている。形こそ龍馬から、剣術習得願いが提出されたとい
 うことになっているが、下級武士の方からそんな大それた願い
 が出せるわけもなく、また受理されるほど、武家社会は甘くは
 ない。断固たる藩の方針があったのだ。それは若者に剣術を習
 わせるというような、コストパフォーマンスの低いことではな
 く、あくまでも西洋砲術の習得と江戸の情報収集にある。若者
 が江戸に出る、ということはそういうことなのだ。
      ──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 加治氏は藩から龍馬への特命のひとつは剣術ではなく、「西洋
砲術」ということになっていますが、龍馬はそれをどこで学んだ
のでしょうか。
 それは当時砲術塾を開いていた佐久間象山なのです。佐久間象
山は、江戸木挽町五丁目(中央区銀座6丁目)で砲術塾を開いて
おり、各藩は競って藩士を入門させていたこともあり、嘉永4年
(1851年)には門人数は120人もいたのです。
 門人には、大洲藩の武田斐三郎、会津藩の山本覚馬、肥後藩の
宮部鼎蔵、幕臣の勝海舟などの名前があったのです。嘉永5年に
は長岡藩の河合継之助、土佐藩の溝淵広之丞が加わり、嘉永6年
には土佐藩は12人の藩士を入熟させており、12月には龍馬も
砲術塾に加わったのです。もちろん龍馬は剣術と砲術の修業を重
ねたのです。
 ところで、龍馬の剣術の腕前は、どの程度のものであったので
しょうか。
 これにはいろいろな説があるのですが、龍馬が千葉道場から与
えられたのは次の目録なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         北辰一刀流長刀兵法目録
―――――――――――――――――――――――――――――
 「長刀」とは薙刀(なぎなた)のことです。かつては歩兵や僧
兵が人馬を薙ぎ払う武器だったのですが、当時は武家の女子の武
術だったのです。
 この事実を知ると、龍馬の剣術の腕はたいしたことはないので
はないかと思う向きも多いのですが、少なくとも「中目録免許」
には達していたとみられる証拠があります。それは千葉定吉が龍
馬を塾頭に任命していることからもわかります。
 またよく知られているように、龍馬は千葉定吉の長女佐那と恋
をして結婚することも取り沙汰されており、千葉定吉自身がそれ
を認めていたという事実です。このことは龍馬の剣の実力が相当
のものであったこと物語っています。佐那自身も凄い剣の使い手
であっただけに、剣の実力が低い龍馬と佐那との結婚を千葉定吉
が許すはずがないからです。おそらく龍馬の実力は大目録皆伝直
前であったと思われます。  ── [新視点からの龍馬論/03]


≪画像および関連情報≫
 ●佐久間象山とはどういう人物か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  松代藩の下士佐久間国善の長男として、松代町浦町に生まれ
  る。幼名啓之助。少年時代から秀才の誉れ高く、天保4年江
  戸に出て佐藤一斎に学び、渡辺崋山・藤田東湖などと親交を
  深めた。同10年江戸神田阿玉池に私塾を開く。同13年藩
  主真田幸貫が老中海防掛となると、顧問として海外の事情を
  研究した。弘化元年黒川良安と蘭学・漢学の交換教授を行い
  オランダの百科辞典などによって洋学の知識を身につけた。
  その後嘉永3年深川の藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟・橋
  本左内ら多くの人材を集めた。同6年門人吉田松陰のアメリ
  カ密航未遂事件に連座し、松代に蟄居を命じられた。文久2
  年蟄居を許された。
  ―――――――――――――――――――――――――――

佐久間象山.jpg
佐久間 象山
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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